青山円座松が名物だった寺院です。
龍巌寺(臨済宗南禅寺派 古碧山) / / / .
古き良き日本といった趣き。
オリンピックで周辺の開発が進みさらにそれが極まったと感じます。
ご府内八十八ヵ所巡りの寺院です。
弘法大師のお寺ですから真言宗ですが何故か臨済宗に変更したとか変わったお寺でした。
第三の目黄不動尊❓
青山円座松が名物だった寺院です。
江戸御府内八十八ヵ所霊場の参拝でお伺いしました。
臨済宗南禅寺派のお寺で古碧山龍巌寺といい、霊場第九番札所になります。
江戸御府内霊場のなかで真言宗以外の唯一のお寺になります。
開創期の札所は熊野神社の別当寺の浄性寺であったが、神仏分離令の際に廃寺となったため龍巌寺に札所が移った。
禅宗の寺院ですが境内に弘法大師を祀る大師堂が建っている、かっては真言宗のお寺で弘法大師空海が関東巡錫の折にこの地に立ち寄り堂宇を建立したのが始まりという由緒のあるお寺です。
禅宗に変わったのは慶長七年のことという。
平安時代の後期に八幡太郎源義家が奥州征伐に向かう際に軍勢の隊伍を整えた場所といわれ、勢揃坂と呼ばれています。
龍巌寺の境内には「義家腰掛けの石」がのこっています。
門が閉まっていました。
場所がわかりにくいです。
不在のようでした。
臨済宗のお寺です。
2018年7月2日、御府内八十八霊場巡り。
御朱印をいただきました。
府内88ヶ所の札所の中では、唯一の禅宗の寺です。
明治時代の神仏分離があり、その後龍巌寺に、移ったと言われています。
この寺は、俳聖松尾芭蕉が、文人墨客と茶道、俳句等を、楽しんだ為の庵があり、今は跡地に、自然園の趣で花木があり自然石に刻まれていた芭蕉の句碑があり、戦災の為に損傷が激しく為秘蔵されていす。
その句は「春もやや けしきととのふ 月と梅」 大師堂前には、明治時代に発掘された弁天石像が、置かれました。
今日は、どんなところか、見学に来ただけです。
檀信徒以外の出入をお断り申す 合掌との札の前に退散もうした。
臨済宗南禅寺派御府内八十八ヶ所第9番霊場平成25年11月26日参拝。
タイミングが良かったのか?直に書いてもらえました。
書き置きの大きいサイズが御堂の前に置いてあります。
名前 |
龍巌寺(臨済宗南禅寺派 古碧山) |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
03-3402-1016 |
住所 |
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評価 |
3.9 |
東京都渋谷区神宮前にある臨済宗南禅寺派 龍厳寺の御本尊・釈迦如来の書き置き御朱印を以前頂きに参拝しました。
1630年にこの辺りの名主であった半右衛門が、居宅を献じて法光円明国師(峻翁令山)を開山として創建。
元々は真言宗であったそうですが、後に禅宗に改宗したそうで、その縁から明治の廃仏毀釈令で廃寺となった御府内八十八ヶ所霊場の札所寺、浄性院から大師堂が移築され、御府内八十八ヶ所霊場札所寺でありながら宗旨は臨済宗という特異な形になったとのこと。
寺の目の前は勢揃坂という鎌倉街道が通っており、奥州征伐に向かう源義家がこの坂で各地から集まった軍勢を総見したことから勢揃坂という名前になったそうな。
と言っても都内に残る鎌倉街道沿いの源義家縁の場所を繋げると、あまりにあっちこっち行き過ぎて信憑性はかなり薄い。
実際ここで行われた総見は、源義家本人ではなく、その麾下の武将が行った総見ではないかという説もある。
祐天寺、五本木の方から来た鎌倉街道は中目黒で目黒川を渡り目切坂を上る。
そして代官山を抜けて並木橋で渋谷川を渡り、金王八幡宮前から青山通りの国連大学前へ。
ここで道は一旦消えるものの、青山のフライングタイガーの所から青山キラー通りへ延びる道としてまた現れ、勢揃坂から鳩森八幡神社前。
この辺りでまた道は消えて、早稲田諏訪通りと交差する道として復活。
神田川を渡り宿坂(かつて鎌倉武士が駐屯した関所があったところから宿坂という名前なんだそうな)を上って雑司が谷へ。
ここらまたまた道は消えるものの、そこから池袋駅方面へ。
そしてそのまま道は延び荒川を渡り奥州方面へ延びていたらしい。
さて話を御朱印に戻すと、こちらの御朱印は堂の前に書き置きのものが置いてあるので、それを授与頂く形になってます。
差し込みタイプの大判なので通常サイズの御朱印帳では貼ることは出来ないのでご注意を。