上総の国府とをつなぐ官道は、市川砂州上を通っていた...
橋の下に川は流れておらず短い橋の欄干に石碑と説明板があるだけです😺真間の土地は昔から真間の入江と呼ばれてきた海岸地帯でした。
弥生時代から既に集落があったと考えられています。
ヨシが生い茂った砂洲が広がり下総(しもうさ)の国府が置かれた国府台へ(こうのだい)向かうため砂洲を中継地として複数の板橋を掛け渡した事から継橋の名を得たそうです😺
きれいに残されてました。
大切にされてるんですね。
小さな石橋で、地域の方々?が綺麗に管理されていると思いました。
土佐はりまや橋より、こちらの方が趣深し。
律令時代の関東地方の様子に興味を持ち始め、旧跡を訪ねてここに来ました。
真間手児奈についてはよくわからないが、赤人や虫麻呂が歌に詠むということは、その名が都の官人にまで知られていたという何よりの証拠なのだから興味深い。
国造の子女で嫁ぎ先と実家の紛争で引き戻されて生きるのが辛くなって身を投げたとか、未婚女性で多数の男性からの求愛を苦にして身を投げたとか、どちらもいまひとつ。
私が思うには、朝廷から采女として出仕を求められたが意にあらず、再三の要求を拒むことで一族に害が及ぶのを苦にして身を投げた・・・ということではないだろうか。
都でその名が知れるということは、都に報告しなければならない何かがあったに違いない。
いずれにしても奈良の都ばかりか、1300年以上経った今でも語り継がれる美女とは、いったいどんな人だったのだろうか。
大門通りにある雰囲気のある小さな橋です。
言われを聞いてさらに旅情を駆り立てられました。
あくまで個人的な感想ですが、高知のはりまや橋の超ミニ版のような感じがしないでもないです。
え、これが~という感じですが、よく見ればなかなか風情があります。
せめて水の流れが欲しいところです。
国府台に下総国府の置かれたところ、上総の国府とをつなぐ官道は、市川砂州上を通っていた。
砂州から国府台の台地に登る間の、入江の口には幾つかの洲ができていて、その洲に掛け渡された橋。
万葉集にも詠まれた。
美しい手児奈に会うために多くの男たちが渡ったといわれる小さな橋です。
近くにつぎはしという喫茶店がありますので、遠い万葉の時代に思いをはせてみてはいかがでしょうか。
万葉集が編纂された奈良時代、川の流れや海岸線など、市川は今とだいぶ地形が異なっており、たくさんの州があり、その州から州へのかけ橋が「継橋」だったと考えられています。
そして、継橋は多くの歌人の題材にもなりました。
「かき絶えし真間の継橋踏み見れば隔てたる霞も晴れて迎へるがごと」(千載集)など。
当時一帯は真間の入江で海岸地帯、下総の国府の国府台へ向かう為の橋で、砂洲の中継地点として複数の板橋を架け渡してあった事から、この名を得たとされる。
日本百名橋の番外に選ばれ、現在は真間弘法寺仁王門前の石段の下にあり、川自体存在せず、石碑と説明版・赤い欄干の小さな橋があります。
JR市川駅から、真間山への参道である大門通りを数百メートル、弘法寺の石段が見え始め、手児奈霊堂に達する直前のところに、写真のような「真間の継橋」がある。
『万葉集』をはじめ、勅撰集にも出て来る歌枕。
当時は「真間の入江」が真間山下まで入り込んでおり、洲から洲へ渡されていたのが「継橋」だったようだ。
江戸人にもその名前は有名で、広重の浮世絵にも描かれたりしたけれど、どうも江戸期にはすでに往時の面影はなかった模様。
で、現行の朱塗りの欄干の「橋」はもちろん近年の建築であり、史実に沿った再現でもない。
万葉集の知識などを頭に詰め込んだ人が訪れると、「これが?」となる可能性あり。
お覚悟を。
土佐の高知のはりまや橋と並んで、「日本二大がっかり橋」であると、個人的には思っている。
名前 |
真間の継橋 |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
評価 |
3.7 |
大門通りを弘法寺に向かって歩いて行くと、手児奈霊堂の入口の手前に赤い橋があるんだよね。
何でこんな所に橋があるんだという感じなんだよね😵だって、川が流れている訳でもないんだよ😱それで、周辺を見てみると、ちゃんと説明の看板がありました😃真間には、海からの入江が広がっていて、州から州に行くには、橋が必要だったんだねぇ😅だから、当時は、あちこちにつぎ橋はあったんだねぇ😁その一つが、今の「真間の継橋」として残っているんだねぇ😲橋の下に川が流れていれば、風流がもっと増すと思うけど、今のままでも昔が偲ばれるなぁ☺️