この場所に保存されているようです。
旦ノ原井戸(唐津街道) / / .
参勤交代の要路であった旧唐津街道沿いに江戸時代後期に掘られた井戸が2度の移転を経て、この場所に保存されているようです。
ここから北東に畦町宿があり、南西に青柳宿がある。
名前 |
旦ノ原井戸(唐津街道) |
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ジャンル |
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電話番号 |
092-944-6214 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.5 |
唐津街道沿いにある旦ノ原の井戸。
この地域は、古賀市筵内・薦野、福津市上西郷・内殿の境界になっており、行政区に関係なく「旦ノ原 (だんのはる)」(旧; 團ノ原)という。
旦ノ原は、飯盛山 (福津市内殿. 157メートル) の南尾根筋 (丘陵)一帯にあり、1960年代に「玄望園」というみかん園が開墾されたが、現在は土地区画整理事業 で、約28ヘクタールが大規模開発されている。
江戸時代の旦ノ原は、唐津街道に位置して、参勤交代や旅人が盛んに往来した。
旦ノ原は宗像郡と粕屋郡との郡境の峠にある集落で、糟屋郡筵内村、薦野村、宗像郡内殿村、上西郷村という四つの村に属していた。
ここを通る参勤交代の一行が、丘陵のため水がなく難儀していたので、この地に住む伊東忠平が、自らの敷地内に井戸を掘る許可を得て、文久2年 (1862) 秋に鑿井開始し、翌文久3年 (1863) 秋に「旦ノ原井戸」が完成した。
「旦ノ原井戸」は、この地域に一つの井戸なので、昔から「二郡四か村の井戸ひとつ」とも呼ばれ、地域の住民や旅人にも喜ばれた。
「旦ノ原井戸」は、青柳の町川原から筵内の鷺白橋を通り、福津市へと抜ける県道503号線 (町川原赤間線) の道路拡幅工事に際して移設復元されている。
旦ノ原井戸舎に、「旦ノ原井戸」の由緒を記した説明板 (平成21年3月古賀市教育委員会) が立っている。
「 旦ノ原は旧糟屋・宗像二郡の境で、莚内・薦野(糟屋郡)・内殿・上西郷(宗像郡)の四村にまたがる丘陵一帯のことをいいます。
江戸時代は、ここを通る道を唐津街道といって参勤交代の要路でありましたが、丘陵にあるため水がなくて困りました。
この実情を当地に住んでいた伊東忠平が、大庄屋の石松林平に訴えて、井戸を掘ることをお願いしたところ許され、 伊東忠平の屋敷に文久二年(一八六二年)の秋に井戸を掘り始め、翌三年の秋にできあがりました。
以来住民にも旅客にも便利になり、この井戸のことを『二郡四ヶ村井戸ひとつ』と呼ばれるようになりました。
この井戸は昭和六一年に県道拡幅工事で、道路敷になったため、荒牧晋一氏の御協力を得て移転しましたが、その後、平成二十一年には再度の県道拡幅工事により現在地に再移転しました。
再移転にあたって荒牧裕貴、荒牧照貴両氏に御協力をいただきました。
この井戸が唐津街道の当時の様子を伝える歴史的資料として、永く愛され活用されることを願ってやみません。
平成21年3月 古賀市教育委員会 」伊東忠平の屋敷は、昭和54年の台風で大被害を受けた後に取り壊されたが、井戸の側に明治34年10月建碑の「伊東忠平祐義碑」と刻した石碑が建っている。
「伊東忠平祐義碑」裏面には「粕屋宗像二群の境・・・(略)・・・明治三十四年十月建碑」と刻まれている。
古賀市図書館収蔵の「郷土古賀の民話」(昭和60年9月1日発行 古賀町司書部会) に全文が掲載されている。
「旦ノ原井戸」は、二度の移転を経ながらも、直径約80cmの井戸の中の石組みまで忠実に復元されている (井戸水は出ない)。
150年以上前、丘陵地で井戸を掘ることが難しかったこの地域に、伊東忠平が鑿井して以来、「二郡四か村の井戸ひとつ」と呼ばれて住民や旅人を潤した井戸の跡が保存されていることが貴重な文化遺産である。
また、「旦ノ原井戸」から徒歩圏内の古賀市薦野の清滝地区は、大根川沿いに約100本の桜並木がある。
「歩いてん道 薦野コース (片道1.7km)」を春に歩くと、桜並木と清流の美しさに心が癒される。