延喜元年には菅原道真が太宰府に流されている。
葛城地蔵尊(将軍地蔵) / / / .
博多駅前を北に伸びる大通り『大博通り』(たいはくどおり)を北上し、明治通りと交差する『呉服町』交差点の一本手前を左折すると、そこは千代町に抜ける『西門通り』です。
昔の博多の雰囲気を色濃く残すこの西門通りをしばらく直進するとまずは旧町名の『魚町』そして『中小路』、『西門町』に進みます。
その道中の右手に見逃しそうですが、この『葛城地蔵尊』通称『将軍地蔵』があります。
近くを通られる際は是非お詣りください。
博多ライトアップウォーク2017で訪れました、普段から参拝できるお地蔵さんですが、ライトアップされるとまた違った趣きで、たくさんの人が押し寄せて観光地然として可笑しかった、だって信仰の対象なのにね(笑)
平成29年6月23日参拝案内板によると本尊は、延喜年中(西暦901年、延喜元年には菅原道真が太宰府に流されている。
又、19年には筥崎宮放生会が始まっている。
)地中より発見された、梵字の彫刻のある石であり、当時は浜辺の清らかな地である冷泉の津、富士見坂(ここから海越しに糸島富士が見えたので、その名が付いた現在地)を選び、地蔵尊としてお祭りしたものであります。
その頃、霊験あらたかなので、天長9年(824年)に開始された宝満山山伏の鎮護国家の為、葛城峰入り修行の際、必ずこの地に来て法華曼荼羅の経文を読まれる霊場となり、ここに初めて葛城地蔵尊の名を称えるに至ったのであります。
その後、正和年間(1312年頃)に御堂が建立されましたが、足利時代しばしば兵乱が起こり戦災に遭い、御堂は焼失したそうですが、寬文年間(1661年頃)再建したものであります。
尚、当時の建物は本堂一棟(間口273㎝ 奥行727㎝ 坪数6坪)境内坪数41坪でした。
昭和の御代になり、33年、福岡市の都市計画のため道路となり、現在地に御堂を建立し、お移り願ったものであります。
本堂一棟(4坪)境内坪数(8坪)古文書によりますと、昔から近年まで、山伏の参拝は世世連綿として続き、その後寬文年間、直方黒田家の陣貝(法螺貝)役を勤めていた、浦田某と言う人、その性格過激であった為、お役御免となり、この地に来たり、地蔵堂の堂守りとして居住されたが、その子、武助の代に至って還俗(出家から俗世に戻る)されたので、依って以後、宝照院より奉仕することになったのであります。
推測しますと、御本尊は、只、梵字を彫った石であるため参拝者の信仰を得るよう、本尊の前に地蔵の像を彫刻して、安置したものであります。
又、厨子の下には石の塔婆 多数重なり中に五輪の塔の破片約15個、又、石塔の砕けたもの10個程あって、何れも刻字浅く剥げ落ちて判然としません。
昭和34年1月24日 宝照院住職 権僧正 『将軍地蔵尊の由来』天文の頃(1232年)早良郡荒平の城主亀井加賀の守と言う人が、当時、博多の津に疫病が流行し、甚だ難渋していることを出入りの商人や職人から聞いてこれを救う為、熊野権現(紀伊の国 和歌山県)を勧請(神を分け迎え祭る)して、悪魔退散の祈祷を行ったら悪病を行ったら悪病はやがて治まったという。
以後、強い神、将軍地蔵尊として合祭しているものであります。
『猿田彦大神について』昭和の中頃、この辺りに火事が続けてあった。
あまり度重なるので近くの女性が祈祷師にお尋ねに参ると、家の下に猿田彦の神が埋まっているというお告げがあった。
近所の畳を一軒ずつ上げていくと、ある家の土の中に猿田彦の半身の姿が見つかった。
近くの四角に祭ると、火事もないようになったということです。
以後、市の道路計画により移転して、この境内に仲良く同居しているのであります。
『霊験あらたかなるご利益について』昔から町内の守護神として厚い信仰を集め、先祖代々祀り受け継いでおりますこと、町内安全、家内安全、無病息災、病魔退散、身体強健、家運隆昌、子孫繁栄等々、尊い御利益があったからに他なりません。
特に、この辺りでは小さな火事はあっても大火はなく、あの太平洋戦争でのB29の空襲の際、百米側まで戦火が迫ったのに無事焼け残ったのであります。
又、不思議なことに昭和12年以来、戦争に出征したこの町の男達30名余が、一人残らず皆無事に帰還したのも特記すべきでしょう。
近くでは、この交通戦争でも事故死した人はなく海外旅行に行っても皆元気に戻って参ります。
ほんとに有り難いご利益のお陰だと感謝の念で一杯であります。
正に別名『生き残り地蔵』とお呼びするのが相応しいのではないかと存じます。
平成7年5月24日上魚町葛城地蔵尊保存会。
名前 |
葛城地蔵尊(将軍地蔵) |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.6 |
このお地蔵様の保存会による看板によると、この町には昔から大火事がなく、太平洋戦争では福岡空襲でも焼け残ったので、この地蔵様のおかげだと信じられているらしい。
出征した町の人々も無事帰還し、交通事故で亡くなった人もこの町にはいないそうで、「生き残り地蔵」と言われているとか。
なるほどなぁ。
今でこそ、お参りしやすいようにオープンできれいに整備されているけど、かなり昔、西門通りの道幅が狭かった昭和時代には暗くて細い路地を入っていったような記憶があるがどうだろうか。
(違ってたらごめんなさい)