昼に来ても少し暗いです。
墓の無い人生は儚い。
知りませんでした❗
昼に来ても少し暗いです。
戦死した兵士のお墓が立ち並ぶ奥手に秀吉側の豪将として活躍した谷大膳の墓があります。
三木城攻防戦の時に平田山砦で三木城の糧道遮断の守りについていました(三木の干し殺しと言われる兵糧攻め)、それに対し天正七年九月九日夜半に兵糧を三木城へ運び込もうとした別所・毛利の軍勢の夜襲を受け、なぎなたをふるって奮闘したが力及ばず戦死を遂げたとされます。
谷大膳と一族の墓は自身が守備していた平田山砦跡にあります。
少し解りにくい場所にはありますが案内板が出ているのでなんとかなると思います。
駐車も献花などで大勢訪れていなければ車を置くことも可能です。
名前 |
谷大膳の墓 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0794-89-2399 |
住所 |
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評価 |
3.7 |
三木市立平田小学校の北の丘陵に谷大膳亮衛好の墓があります。
ここは、三木合戦の際、羽柴秀吉が、三木城を包囲し兵糧等物資が城内に運び込めないように三木城の廻りに築いた30余りの付城(つきしろ)のひとつである平田山砦のあった場所です。
谷大膳は、この平田山砦を守護していました。
谷大膳は、秀吉の家臣ではなく、織田信長の家臣であり、三木城籠城攻めには、援軍としての立場であったようです。
谷大膳は、身の丈八寸(180センチ)の大力の豪将で名を馳せていました。
兵糧が不足してきた三木城の別所長治は、毛利氏に援軍の依頼の密使を送ったと云われています。
そして、天正7年9月9日、三木城への兵糧等物資を明石から陸路で三木の大村付近まで運んできた毛利軍と雑賀衆は、三木城包囲網の一角を破って三木城に入城せんとし、谷大膳が守護する平田山砦に夜襲をかけました。
これと示し会わせた三木城からも別所長治の叔父 別所吉親を主将とする兵3000が平田山砦を攻撃しました。
この時、別所吉親の妻も将として出陣したと云われています。
女性ながら甲冑を身にまとい、秀吉軍に切り込み敵を蹴散らすほど、武芸にも秀でた存在であったと云われています。
毛利別所連合軍に急襲された谷大膳の手勢は僅かで、谷大膳も薙刀を手に奮闘するも、五十余創を受けて壮絶な最後を遂げたようです。
この平田山砦の異変に気付いた羽柴秀吉は、すぐに、平井山本陣の本隊を平田山砦に向かわせ、廻りの各付城からも援軍が参戦しました。
これにより、形勢は逆転し、毛利別所連合軍は敗走しました。
谷大膳の嫡男 衛友は、仇敵を討ち取り、父の遺体を取り戻したと云われています。
この大村平田合戦において、別所軍の大将格数十名、兵800が討ち死にし、秀吉軍の大勝に終わり、雑賀衆も兵糧を運び込むことができず、秀吉軍に兵糧を奪い取られました。
兵糧が不足していた別所軍は体力が衰え、鎧が重くて、戦いに成らなかったと云われています。
壮絶な最後を遂げた谷大膳。
谷大膳と一族の位牌は、大村の金剛寺にあります。
神戸新聞に関連する記事がありましたので、添付しています。
三木市には、別所長治方(三木城)と秀吉方の城跡や墓、塚等の史跡が無数点在しています。
ここは、どちらの城跡かな?等、考えると歴史の中に引き込まれる気分になると思います。