今は古くから地元にあった庚申塔などと同じ場所に移設...
近くには最近まで外務省の通信所(受信所)がありましたね。
小高い丘の上だったのでそういう設備がどうしても集まってきます。
もう少し東に行くと二和に漁業無線の鉄塔もありました。
現在の水道センターのあたりでした。
無線電信所道の道標は、1915年に創設された海軍無線電信所船橋送信所(現在の県立行田公園)の道標として1917年に建立されたもので、今は古くから地元にあった庚申塔などと同じ場所に移設されています。
地元の方々から話を聞くと無線電信所道の道標、庚申塔、祠などは現在の場所に集められたようで、かなり昔からこの地にあったそうですが、無線電信所道の道標以外は何処にあったのか正確な場所は分かりませんでした。
無線電信所道の道標は『大正6年に皇太子(のちの昭和天皇)行啓に伴い国県郡費、耕地会沿道民の寄付、村費など4000円を以て葛飾村に於いて大改修工事を施工した記念に建立された』旨の刻みが道標にあり、元は国道14号線の分岐地点の角に立てられていたそうで、この分岐地点とは現在の国道14号線とJR西船橋駅から京成西船に向かう道路の交差点の角らしいです。
ですから仮に海軍無線電信所船橋送信所へ行く為に都内から来た場合、この無線電信所道の道標(従是北八百余間との刻み)により北方(左折して)に1.5㎞向かうと海軍無線電信所船橋送信所(太平洋戦争が開戦となった真珠湾攻撃の暗号ニイタカヤマノボレ 一二〇八が発信された所)があるということの道標でした。
また、道標には『東 船橋方面ニ至ル』『西 市川方面ニ至ル』と刻まれいますから現代でいう道路案内標識と同じで、確かに案内のとおりです。
もう一つ道標の代わりになったのが昭和30年代の国道14号線(昔は成田街道と呼ばれていた)で、無線電信所道の道標より手前の左側に勝間田池(現在の勝間田公園)があり、この付近に大きな樅の木とトイレがある幅広い分離帯があったことからこの分離帯を過ぎて左折すれば無線電信所へ行けたので、分離帯が色々な面で目標になったそうです。
因みに分離帯の長さは約150mです。
行田公園になっていますが、海軍無線電信所船橋送信所へ行く道標です。
以前は国道14号の千葉街道にあったそうです。
名前 |
無線電信所道の道標 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.6 |
Google Maps で見ても、明らかに円い外周道路に囲まれた現在の行田団地は、旧海軍の無線電信施設があったところ。
イメージとしては、現在も自衛隊が国内に数ヶ所保有している俗称「象の檻」のようなものだったと考えればよいだろう。
戦後に米軍の接収を経て、1972年までに完全に解体された。
この「海軍無線電信所船橋送信所」からは、太平洋戦争開戦時、真珠湾攻撃の開始を司令する「ニイタカヤマノボレ一二〇八」が打電されたので有名。
といったことを説明する看板のひとつもなく(送信所跡にはあるが)、「電信所道」の石碑も住宅街の中のブロック塀の内側に、庚申塔とともに囲われていて、全景を見るには塀越しに覗き込まないといけない。
すぐ向こう側には民家があり、ちょっと気兼ねしてしまう。