名前 |
奥村五百子女史像 |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
評価 |
3.6 |
弘化(こうか)2年(1845年)、唐津城下中町高徳寺(こうとくじ)の住職奥村了寛(おくむらりょうかん)の長女として五百子は生まれました。
小さい時からお転婆(てんば)で、男の子の先頭に立って遊んでいました。
いじめられている子がいると、生来(せいらい)の正義感から男であろうが女であろうが年上の者であろうが相手かまわず立ち向いました。
18歳の時、勤王派の父了寛の頼みで長州まで密書を届けることになりました。
男武者に身なりを変えて、長州に向いました。
赤間が関を通過しようとした時に警備の者に捕まり、通せ通さぬと押問答をしていると奇兵隊隊長高杉晋作が通りかかりました。
これは好機だと思った五百子は初めて会う晋作に向って「高杉先生よいところでお目にかかりました。
唐津の奥村です。
父の言いつけで来ました」と声をかけました。
晋作は唐津の奥村が勤王の志士として活動しているのを知っていたので、話を聞き無事役目を果たせるよう取り計らいました。
五百子はこの後、西郷隆盛とも出会い、勤王の志士達の連絡に走り回るようになりました。
明治維新を経て第1回衆議院議員選挙の時には旧唐津藩の下級武士の出身の天野為之を推し、自ら指揮を取り見事当選させました。
この五百子の働きは唐津の人々を驚かせました。
生来の正義感と世話好きから隣近所の夫婦げんかから唐津の町のもめごとまで口を出し、唐津で解決できないことがあると上京し、旧唐津藩主の小笠原長生(おがさわらながなり)を通じ中央の政治家や実力者に協力をお願いしました。
総理大臣大隈重信も五百子から頼まれると、嫌とは言えず協力をしました。
五百子は郷土唐津のために多くの仕事をしていますが主なものとして、松浦橋架橋、西唐津開港指定、鉄道唐津線開設、海軍貯炭場(舞鶴公園下)払下げなどがあります。
町の人達が1番望んだのは、松浦川に橋を架けることでした。
対岸の満島に行くには渡し舟しかなく、不便で仕方ありませんでした。
架橋(かきょう)に必要な用材を確保するため五百子は上京し、岸岳官有林の払下げを陳情しました。
五百子の郷土思いの熱意が通じ、官有林払下げが許可されました。
その結果、工事が実施され、九州一の長い松浦橋が明治29年(1896年)に完成しました。
出しゃばり婆さんと陰口をたたいていた人でさえも「五百子は唐津の宝だ、日本一の女傑(じょけつ)だ」と褒め称え(たたえ)ました。
明治33年(1900年)に、北清事変が起こりました。
戦地へ慰問団(いもんだん)を送ることになり、ただ一人女として慰問団員として北京へ向いました。
戦場となった場所を回り、戦争のむごたらしさ、戦闘のすさまじさを体験しました。
帰国した五百子は小笠原長生を訪れ「戦死した兵士の遺族は働き手を失い、国の手当があるとはいえ、明日からどうして暮らしていくか途方にくれています。
これらの人達を温かく助けていくのは、国民の務めです。
この婆はなぜ戦争せねばならぬか分りません。
女の私がしなければならないことは、戦争で傷つき嘆き(なげき)悲しむ人に手を差し伸べることです。
そのため、軍人遺族救護の婦人団体を作ることにします。
」と訴えました。
さっそく準備が進められ明治34年(1901年)、愛国婦人会の発会式が行われました。
席上五百子は「半襟一つ買う金を節約して献金してください。
それを集めて遺族を慰める資金にします。
全国の婦人がこぞって賛同くだされば大きな資金となります。
どうかこの会にお入りください」と訴えました。
胸を病んだ老婆が薬瓶を持参し、極端に経費を切り詰め「半襟一本運動」を遊説して回ったのです。
その熱意が人の心を動かしました。
日露戦争の慰問の時には激戦地を訪れ、敵味方の別なく念仏を称え平和を祈りました。
このような中、五百子の病状は限界に達し療養生活を送りますが、病状はさらに悪化し、明治40年(1907年)五百子は63歳の生涯を静かに閉じました。
第二次世界大戦後、日本の軍国主義に対する反省の中で五百子の業績を批判する人もいますが、五百子の考えの根底に流れているものは弱者へのいたわりです。
女性の地位が低かった明治時代に類まれな(たぐいまれな)行動力を持って活動した五百子の生き方は現在の私達に大切なことを伝えています。