高台にあり、遠くがみわたせます。
富士信仰は江戸時代活発だった。
浮世絵に描かれた風景ではこのようになっていた。
江戸時代に、富士山を崇拝対象とした民間信仰が広まり、人々が集まって富士講という団体が作られました。
富士講の人々は富士山に登るほかに、身近なところに小型の富士(富士塚)を築きました。
富士塚には富士山から運ばれた溶岩などを積み上げ、山頂には浅間神社を祀るなどし、人々はこれに登って山頂の祠を拝みました。
マンションの敷地にあったこの富士塚は、文化9年に上目黒の富士講の人々が築いたもので、高さは12mもあったといいます。
文政2年 に、別所坂上(中目黒2-1)に新しく富士塚が築かれるとこれを「新富士」と呼び、こちらの富士塚を「元富士」と呼ぶようになったそうです。
昔はここから本物の富士山が見えたのでしょうね。
移転してきた東京音大の裏の坂道を上がるとあります。
富士山は建物の関係で見えないけど、散歩するには気持ちがよいところです。
目黒元富士は、文化9年(1812)に築造された富士塚。
現在は、削られていて跡形も残っておらず、説明板があるだけです。
高台にあり、遠くがみわたせます。
今となっては想像するしかないのですが、明治以降に取り壊されるまで、此処には富士塚があったそうです。
文化九年(1812年)に上目黒の富士講の人たちが造立したもので、高さは12メートルもあったそうです。
C'est le petit mont Fuji du quartier : Moto Fuji ! On pouvait voir cette colline dans une estampe de Hiroshige.
薄暗いところ。
大きなマンションの横にあります。
名前 |
目黒元富士跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.4 |
目黒元富士跡(めぐろ もと ふじあと)江戸時代に、富士山を崇拝対象とした民間信仰が広まり、人々が集まって富士講という団体が作られました。
富士講の人々は富士山に登るほかに、 身近なところに小型の富士 (富士塚) を築きました。
富士塚には富士山から運ばれた溶岩などを積み上げ、山頂には浅間神社を祀るなどし、 人々はこれに登って山頂の祠を拝みました。
マンションの敷地にあった富士塚は、文化9年(1812) に上目黒の富士講の人々が築いたもので、高さは12mもあったといいます。
文政2年(1819) に、別所坂上 (中目黒2-1) に新しく富士塚が築かれるとこれを 「新富士」と呼び、こちらの富士塚を「元富士」 と呼ぶようになりました。
この二つの富士塚は、歌川広重の『名所江戸百景』に「目黒元不二」、「目黒新富士」としてそれぞれの風景が描かれています。
元富士は明治以降に取り壊され、石祠や溝の碑は大橋の氷川神社 (大橋2-16-21) へ移されました。
平成22年12月 目黑区教育委員会。