此方に移築されたようです。
旧東海道 大井川 川会所 / / .
訪問日 3024/3/3近くの川会所跡となっている場所から、此方に移築されたようです。
「大井川の川越」江戸時代の初期、慶長6年(1601年)に幕府は江戸と京都を結ぶ東海道に宿場伝馬の制を定めて街道交通を整備するいっぽう、大井川や安倍川•酒匂川など主要な河川は江戸城の要害として、架橋や渡船を認めず川越人足に旅人を担いで渡らせた。
大井川の渡渉制度は、江戸時代初期には比較的に自由なものであったが、貞享•元禄期(1687~1704年)頃から、旅人の安全確保のため制度を厳しくし、元禄元年(1689年)には川越業務を統括する二人の川床屋を置くとともに、その役所として川会所を設置した。
旅人は川会所で渡し賃を支払って、川札を買い、川原で待機する川越人足に川札を渡して、肩車や連台と呼ばれる木製の台に乗り、人足に担がれて向こう岸へと渡った。
川越制度では、川床屋のもとに年行事(川床屋の補佐役)、小頭(川越人足の各組の統括役)、立会人(川役人と川越人足、各組同士の調整役)、口取(旅人の案内役)、侍川越(人足業務に特に秀でた者)などを置いて、川の深浅による渡渉賃銭の取り決めや通行人の順番の割り振り、川札の販売などの業務を行い、円滑な運営を図るとともに規定の渡渉地点以外から越える廻り越しも取り締まった。
川越人足は当初は島田•金谷両宿とも各360人と定められていたが、交通量の増大にともなって、その数も増え幕末には各650人ほどいたと言われている。
彼らは、一番から十番までの組に分けられ、交通量に合わせて各組の出番を調整し、川越業務に従事した。
川越制度は、明治維新まで続けられたが、明治3年(1870年)政府からの通達により、架橋•渡船の禁が解かれ、この制度は廃止された。
「島田宿大井川川越遺跡」は、江戸時代、東海道最大の難所として知られた大井川の川会所や川越人足の溜まり場として使われた番宿など、川越関連の建物や遺構が残る貴重な場所として昭和41年(1966年)、国の史跡に指定されました。
また、平成8年(1996年)には、文化庁の「歴史の道•百選」にも指定されました。
桜の木があり、春にはいい雰囲気になりそうです。
令和4年12月25日。
川の深さなどを測って川越しの料金を決めたり、川札(かわふだ=切符)の販売のほか川留めや、川開けなどを取り仕切った川役人がいたそうです。
元禄9(1696)年に川越制度が確立されてから、川越業務を行なってきた建物です。
現存する建物は安政3(1856)年に建てられたもので、明治以降数回の移転を経て、昭和45(1970)年、川会所跡の西側の現在地に復元保存されました。
川会所の中には、人をのせた連台(れんだい)などが展示してあります。
金谷側にも同様の施設がありましたが、残されていません。
桜の季節に行くと 一段とキレイ。
プロジェクトラッピングが行われました。
幻想的です。
🎵箱根八里は馬でも越すが~、越すに越されぬ大井川😃🎶って唄われた大井川の渡しは、子供の頃、耳にして忘れられない文句になってます。
大井川は、東海道一の難所だったんですね。
無料が嬉しいですね。
二つの川会所の一つ。
安政の地震で建て替えたもの。
名前 |
旧東海道 大井川 川会所 |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 8:30~17:00 |
関連サイト | |
評価 |
4.2 |
ブラタモリの写真飾ってました、無料で学べる施設は大変ありがたい。