立派な銅像と台座でした。
平成29年6月10日訪問真木和泉守保臣(1813~1864)は明治維新の中心的指導者である。
水天宮神職の家に生れ早く父を失ったが、よく母に仕え、かねてから学問に励み、武道、音楽にも長じ、藩校明善堂から表彰をうけた。
傍らに流れる筑後川は菊地一族の誠忠を語り、少年の時に愛読した絵本楠公記は尊王愛国の精神を培い、長じては水戸学を中心に学識を深め、しかも身をもって実践した。
藩政改革を企ててならず、一時水田に蟄居(ちっきょ)したが、後に脱出して東奔西走、国事に盡し諸国の志士から「今楠公」と謳われ、その中心的指導者と仰がれた。
彼は蘭方医工藤謙同と親しく、外国の事情にも通じ久留米の医学刷新に盡し、久留米藩医学館の生みの親といわれる。
また早くから薩長連合を唱えたが、時到らず、長州藩と共に倒幕の軍を起こし禁門の変に敗れ、同志16人と天王山に登り辞世の和歌を残して自刃した。
大山の 峰の岩根に 埋めにけり わが年月の 大和魂。
名前 |
真木和泉守の銅像 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.5 |
立派な銅像と台座でした。