賽銭泥坊に取られない様になっています。
熊野神社甲州街道の銀杏並木は11月上旬が見頃です。
武蔵野陵へ紅葉をみにいった帰りによりました。
週末に祭りでもあるのかテントがたってて、時期が合えばよかったのになって。
境内をぶらぶらしてると、でっかい相生の木が。
どうやら戦国時代、北条家にて恋物語があって、それが元でこの神社の相生の木を”縁結びの木”と呼んでるみたい。
木の根元に、相手の名前を書いた石を二つ置くと、願いが叶うらしいです。
なんか甘酸っぱい感じですね。
あれですよ、根元の石の裏を確認しちゃだめですよ!!
現在は公園(すべり台があるだけ)になっている。
境内には稲荷神社がある。
無人。
大きな木達に癒やされる。
町田街道の甲州街道の交差点近くに有ります。
高尾駅から徒歩3~4分位の所に有ります。
百数年前は浅川小学校が有った場所だそうです。
夕焼け小焼けの童謡の作者中村うこうも通って居たらしい。
境内には1本の木から欅と樫の木が出て居る木が有り、今風に縁結びの木と訪ねてる方も居ます。
11月の銀杏祭りでは武州椚田関の看板が出て居る原(はら)の関所になります。
那智の熊野神社と同じ木(御神木)が境内に有り、熊野神社の方が来て驚いて居たと聞いてます。
甲州街道沿いにある。
縁結びの神社としても有名らしい。
ご祭神は素邪那岐命 いざなひのみこと。
イザナギノミコトをこうやって書くのは初めて見た気がする。
通常は伊を使うと思うのだけど。
敷地は公園にもなっている。
甲州街道沿いにある。
縁結びの神社としても有名らしい。
ご祭神は素邪那岐命 いざなひのみこと。
イザナギノミコトをこうやって書くのは初めて見た気がする。
通常は伊を使うと思うのだけど。
敷地は公園にもなっている。
娘の長男坊と高尾駅に、娘を迎えに行った時の事です。
予定より早く駅に着きそうだっので、時間待ちの間にお社にお寄りしました!北條氏照公の所縁のお社でした!熊野神社は平安時代から中世にかけて皇族・貴族・武士などの信仰が厚かったのです。
旧元八王子村から恩方村への入り口(境)は、大鳥居があり神戸と呼ばれていたのです。
恩方村は、恩田御厨でないかと渡辺世祐先生は指摘されていた様です。
熊野宮が恩方地区に存在していました。
神戸には、大鳥居があったそうです。
(拙稿「戦国流転 岡田御厨」)「由井郷の人々 熊野速玉大社の『熊野山新宮勧進状』の裏面に記載された人々は勧進を取り扱った先達が、覚えのために便宜一筆をもってかきつけたものとかんがえられ、全般の文字の体様から、近世初頭の頃のものかと考えられるようであるらしい。
この人々の大部分は一般民衆である。
其の覚えの中につぎのような記載がある。
「 二貫文 武州多西郡由井郷住人 目黒掃部助 百二十文 関山弥五郎重顕 六百文 右京 」 武州多西郡由井郷は、現在の八王子市大楽寺町・諏訪町・上壱分方町・弐分方町・西寺方町あたりと考えられる。
目黒掃部助は、天正十八年(一五九〇)六月二十三日、八王子城で討死した相即寺過去帳にある、目黒氏の一族とおもわれる。
それにしても、目黒掃部助の二貫文の寄進は大きい金額である。
此の地の有力な土豪であろう。
(拙稿 由井郷の人々)北條氏康公の三男で、大石氏の名跡継いだ若き北条藤菊丸(後に大石氏源蔵)は、由比地域の領主から、八王子城主なるのです。
大戸から八王子地域の道筋の狭間地区は、重要な防衛拠点となったと思われます。
この熊野神社に就て詳しい調査を進めたいと思います。
名前 |
熊野神社 |
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ジャンル |
/ |
住所 |
|
評価 |
3.7 |
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賽銭泥坊に取られない様になっています。