長い橋だったのですねぇ。
板橋区登録有形文化財。
かつて中山道に架かっていた三代目戸田橋の親柱。
中山道に架かる戸田橋は,埼玉県と東京府を繋ぐ陸運の重要ポイントであり,人々の生活を長年支え続けた。
そもそも,江戸時代当時から荒川に架橋することは技術的に可能であったが,首都防衛の観点から,幕府によってこれを固く禁じられていた。
このため,人々の移動や物資の輸送は船に頼らざるを得ず,大変な生活不便を強いられていた。
しかし,明治時代になると,版籍奉還・廃藩置県によって政府への中央集権化が進み,内国の敵を想定しにくくなる。
この結果,架橋を禁止する趣旨がなくなり,明治六年ごろから,堰を切った様に架橋の嘆願が相次いだという。
明治七年。
コンペを経て,鳥取県貫属士族 堀正らの木製橋案が採用され,着工。
そして翌年,陸運業を営む信州資本家 正木誓らによって,竣工された(資金不足により,正木らに架橋事業が引き継がれていた。
)。
この初代戸田橋は,建設資金の返済のため,通行料を取っていた様であり,それを支払える陸運業者の利用が大方だったという。
なお,通行料は明治三十一年までとられ続けたと聞く。
「明治四十三年の大水害」が発生。
決定的なダメージを与えられた初代戸田橋は,新たな木製土橋に架け替えられ,大正元年に二代目戸田橋が誕生する。
明治以降のインフラストラクチャーは,機関車に依存する様になっていた。
しかし,大正十二年に発生した「関東大震災」はこれをすべて破壊。
物資輸送は,江戸時代レベルにまで後退してしまう。
新しい生活に慣れた人々は,これに耐えられない。
その一方で,東京 埼玉の復興活動において,トラックが大活躍した。
この結果,地震大国の日本において機関車よりも相対的に災害に強い輸送手段として注目が集まり,陸運業者がその事業においてトラックの比重を高めていくきっかけとなった。
昭和初期。
「関東大震災でボロボロになったし,トラックとかも増えてきてるし……」という様な理由で,戸田橋を頑丈かつモダンな鉄製橋とする計画が立ち上がる。
その際には,増田淳という有名な設計士にデザインを頼んだという。
そして昭和七年,トラス構造の鉄製橋が竣工されるに至る。
現在ここに野晒しに展示されているのが,その時の親柱だ。
江戸時代以降,長野群馬埼玉の物資を東京へと運ぶ主要道路として中山道の役割は大きく,同じくしてそこに架かる戸田橋の利用価値も高く,まさに陸運の要衝と言える橋であった。
特に「中山道沿いに鉄道を通す」というマボロシの計画が頓挫していたため,その重要性は,他の流路よりも大かったと言える。
しかし,歴史が下るにつれて,笹目橋の架設・高崎線開通・東北自動車道開通などにより,相対的に重要性が下がっていった。
ゆえに,今では「ただの道」と「ただの橋」くらいの認識しかされていない状況であろう。
デザインの良さとかは良く分からないが,この親柱は,戸田橋が「ただの橋」ではなかった頃のものであり,以上の様な過去を背負い,当時の旺盛な様子を今に伝えるものとして,歴史的価値がある。
長い橋だったのですねぇ。
名前 |
戸田橋親柱 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
評価 |
3.7 |
ちゃんと残そうとした、当時の人達に感謝だよね‼️