橋がかけられなかったため、渡し船が発展。
中山道戸田の渡しの碑 / / .
江戸の守りのために、橋がかけられなかったため、渡し船が発展。
河岸(かし)も発達。
荒川の堤防道路から舟渡2丁目の堤内地に降りる途中にひっそりと石碑と案内板が立っています。
このあたりは河口から25kmくらいで、大潮の時期は引き潮の時間帯はけっこう流れが速いので、小舟で渡るのは容易ではなかったと思われます。
いまではここを新幹線が通っていて、あっという間に荒川を越えて行きます。
中山道、戸田の渡し。
こちらは、江戸側、東京側、板橋宿側。
調度反対側にも、武蔵側、埼玉側、蕨宿側の渡し跡の石碑あり。
江戸時代,幕府にクーデターを企てるであろう諸大名の移動を制限するため,架橋は厳しく制限されていた。
これは江戸の大動脈である中山道も例外ではなかった。
このため,渡し船が発達していた。
現在,明治以降の治水工事により,川から随分と外れた所に碑石が立っている。
やはり浮間舟渡の舟渡の語源だろう。
中山道をサイクリングして戸田橋で荒川を渡ると戸田側と板橋側に江戸時代の名残、戸田の渡し船の記念碑があります。
板橋側は余り目立たないのでよく探さないと見過ごしてしまいそうです。
土手の道路脇にひっそりあるので、見付けづらい。
対岸の戸田市側に渡船場跡地の石碑があり、管理は戸田側の役人が行っていたそうです。
明治時代に戸田橋が架けられて、その役割を終えました。
名前 |
中山道戸田の渡しの碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.6 |
国道17号線戸田橋右岸下流側土手途中にある対岸の戸田村の地名を取った渡しの碑。