観る機会があまりないでしょうね。
看板見落としていたら気づかなかったかも😅なんで閻魔さまが恋愛成就なのか…当て字で縁間?と勝手な妄想していましたが違うのですね。
元々は流山地域の共同墓地に建てられた集会場で、閻魔様を祀っています。
歌舞伎で有名になった「ねずみ小僧次郎吉」は流山の出身であるとされ、その墓も所在します。
地元の作家が著した小説「焔魔堂横町」で名が知られるようになりました。
寺の境内からかなり離れた場所にある舎宅のような雰囲気があるお堂🙏口を開けてベロを出している迫力がある閻魔様がカッコいい🍀🍀堂の目の前には歌舞伎でも有名な義賊の金子市之丞氏とその愛人で遊女の三千歳さんのお墓がわかりやく看板ありである🙏金子市之丞氏の墓は真ん中でその右横の奥が三千歳さんのお墓です🦉
只なんとなく。
ヤンモタン(原文)閻魔堂。
エンマ・ホール(原文)閻魔堂。
流山「根郷」の中心に位置する共同墓地で、現在も無宗派共同墓地。
通称流山本町こと根郷は、江戸川開削以降に拓殖されたもので、それまでは氾濫原野として集落も無かった。
江戸川は全区間が人工河川だが数世紀に渡り工事が繰り返されて来たもので、徳川幕府時期に関宿〜松戸間が開削されその計画線上にあった葛飾郡丹後村の大部分が「計画都市」の根郷に移転を促されたか、若しくは自然に移転したと見られる。
この共同墓地は根郷成立時期に作られ、草創開拓者(六軒百姓)各一族墓地から並んで居る。
江戸川が出来た事で農地と言うより物流・醸造を始めとした工業団地化が進展し、人口が急増、この為に無宗派の共同墓地が必要とされた。
「金子市之丞」墓碑は実在した窃盗常習犯のものだが、明治初期に歌舞伎のヒーローとなって知名度が上がり、街衆が石にしたものだが、太平洋戦争後に松戸に競輪場が出来ると「転輪信士」と言う戒名が災いしたのか削って持ってゆく輩が増加、補修増設がされたが今日も削られ減られしている。
堂内閻魔像は木造で共同墓地設置時期にはあった様だが、由来書等含めて木造を除く堂は明治三十年の大火で焼失して今に残るものはない。
但しこの閻魔像は自身が舌を出し、「シャク」ではなく「ナタ」を持ち、左手は印を結ばずに要求の手形をし、薄く微笑んでいる事から明治期には消滅した「閻魔講」の一派に拠るもので、「裁判官」的位置付けでは無く「取調官」的位置付けである。
是は寺院が戸籍役場の機能も抱えていた時代の名残で、明治二十年以降の戸籍制度整備で自然消滅した。
現在、市の文化財にこの閻魔像と念仏講仏具が指定されている。
※平成30年6月以降は文化財調査・修繕工事の為に閉鎖状態になるので御留意を。
ずいぶんと歴史があります、想像も出来ません、江戸川八十八ヶ所の二つがありました、なぜだかわかりません、一つは近寄って、あっここに?隣にも勿論番所は違いますけど、何かいわれがあると思います。
文字が見えるように近寄って写しました。
そもそも現代では、金子市之丞と遊女の三千歳(みちとせ)の出てくる芝居(歌舞伎)『天衣紛上野初花』(くもにまごううえののはつはな)自体、観る機会があまりないでしょうね。
江戸のピカレスク・ロマンで、河内山宗俊を筆頭に、悪党たちが権力と戦って活躍する大変面白いものなので、埋もれさせてしまうのは大変惜しい。
で、金子は江戸後期の流山の味醂屋さんだか醤油屋さんだかの倅だったが、家産が傾くとともにバクチ三昧、江戸へ出て盗賊となり、盗んだ金を貧民に施したらしい。
それが実説か、まして三千歳さんと懇ろだったかどうかはよくわかりませんが。
ついに江戸小塚原で刑死したのち、彼を「義賊」と慕う人々が遺骸を引き取ってここに葬ったとのこと。
ひっそりとした境内に佇んで、その墓を眺めつつ、ちょっとロマンに浸ってほしいのですが、元を知らないと興味がわかないかな。
名前 |
閻魔堂 |
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ジャンル |
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電話番号 |
04-7168-1047 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.7 |
閻魔様以外にも、新四国八十八ヶ所(第二十一番)の石碑、十九夜塔(安政二年?)、開眼供養念佛講の石碑(元禄十五(1702)年)、貞享元(1684)年の石造物等がある。
歴史ある場所です。