家康の功臣として現在も顕彰されている。
本多忠勝 銅像 行徳橋 / / .
武勇伝の塊のような戦国武将本多忠勝公の銅像が設置された橋です😺戦いに明け暮れた戦国時代に戦(いくさ)に負け知らずでとても勇ましく武運があった忠勝公。
肝心の銅像なんですが、実際に写真で見るよりも銅像のサイズがかなり小さい。
何故か勇ましさというよりも その小ささ故に可愛さをの方を感じてしまいます🙇u200d♀️歴史が好きな歴女さんは鎧兜の勇ましい姿に関わらず小さくて可愛い忠勝公の銅像に胸キュンになるかもしれませんね😸※勇ましい戦国武将に対して可愛いなんて私も相当な罰当たりだ😂
街並みから少し離れた場所に鎮座してます。
ちょっと寂しい感じです。
思ったより小さい。
・橋の両端に違うポーズであります。
橋の脇からの散策路。
中々の穴場ですよ❗桜と菜の花綺麗でした‼
本多忠勝徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、家康の功臣として現在も顕彰されている。
生涯において参加した合戦は大小合わせて57回に及んだが、いずれの戦いにおいてもかすり傷一つ負わなかったと伝えられている。
一言坂の戦いでの殿軍での戦いぶりを武田軍の小杉左近から「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」との狂歌の落書をもって賞賛された。
「本多平八」は本多忠勝のことである。
「唐の頭(からのかしら)」とはヤクの毛で作られた兜のことで、中国四川省やチベット原産(つまり「唐」原産)の日本では珍しい品であった。
一説に寄れば家康は難破した南蛮船からこれを入手し、愛用していたという。
織田信長はその並はずれた武勇を武田征伐後、「花も実も兼ね備えた武将である」と侍臣に紹介した。
天正12年(1584年)4月の小牧・長久手の戦いでは、当初忠勝は留守を任されたのだが、豊臣方16万の大軍の前に徳川軍が苦戦して崩れかけていることを聞き、忠勝はわずか500名の兵を率いて小牧から駆けつけ、5町(約500m)先で豊臣の大軍の前に立ちはだかり、さらに龍泉寺川で単騎乗り入れて悠々と馬の口を洗わせたが、この振舞いを見た豊臣軍は逆に進撃をためらい戦機は去った。
この豪胆な振舞いや活躍などにより、豊臣秀吉には「日本第一、古今独歩の勇士」と称され、また、「東に本多忠勝という天下無双の大将がいるように、西には立花宗茂という天下無双の大将がいる」と勇将として引き合いに出された。
関ヶ原の戦い終了後、福島正則は忠勝の武勇を褒め称えた。
忠勝は「采配が良かったのではない、敵が弱すぎたのだ」と答えたという。
場所は橋なんですぐ分かりました。
偶然車で通りかかり、知りました。
小さな銅像が橋の両端に建ってます。
名前 |
本多忠勝 銅像 行徳橋 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.6 |
橋の両側に銅像があります。