創建670年らしいです。
創建670年らしいです。
斎場の奥の行き止まりにある古刹。
ここの和尚さんが中国から持ち帰った白蛇が田代滝に住み着き、木こりの与作から精気を吸い取ったり子供を石化したりして関平内に討伐されます。
詳しくは齊藤弥四郎氏の「円照寺の大蛇」「田代滝の機織り娘」で読めます。
おすすめの郷土史読み物です。
釈迦如来を御本尊とする臨済宗妙心派の古刹で、創建は天智天皇9(670)年、勅願の道場であったとされ、中国へ留学した禅僧・復庵宗己(大光禅師)が暦応元(1338)年に臨済宗へ改宗して始祖になったと云われています。
ここ円照寺は大多喜城主・松平氏の菩提寺で、開山像や松平氏歴代の位牌が大多喜町の文化財に指定されています。
チェーンゲートによりクルマでの境内への侵入はできませんが、チェーンゲート前に駐車スペースあります。
円照寺の伝承円照寺に伝わる正木大膳の薙刀は、正木大膳時堯が万木城主土岐頼春の伏兵と力戦奮闘した名誉のものだとの言い伝えがある。
この戦いで、時堯は手勢の者九人と共に、敵兵五十余りを薙刀で討取り、血の滴るまま当寺に奉納したという。
引用・参考:『大多喜城物語』渡辺包夫・市原充著時代が下った幕末の頃、大多喜藩最後の藩主となった大河内正質公は、鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍の総督となり、大阪城を出陣して淀藩城外の藩校明親館に本陣を構え、陣中で指揮を執った。
しかし、戦いは旧幕府軍の敗北に終わり、将軍慶喜の大阪城退去も更に戦局を悪化させ、失意のうちに一同は次々と江戸へと退却していった。
正質公は老中格であったが、江戸城の登城を禁じられたうえ役職を免じられた為、領国の大多喜へ向かったのであった。
江戸城無血開城が成った後の、慶応4年閏4月、新政府鎮撫軍副総督柳原前光率いる約二千名の軍勢が、佐倉、東金、茂原、を経て房総半島を南下していた。
新政府軍軍勢が長南の宿場に着陣した時、隊長肥後藩安場一平保和(勝海舟より、横井小楠門下第一の人物と評される)を正質公のもとへ軍使として派遣した。
無条件降伏の布告書を手渡し、返答を待った。
大多喜城内では藩重臣らによる、佐幕か勤王かの徹夜の評議が行われ、翌日、無条件降伏と大多喜城下の寺院に謹慎する旨記された返書を柳原前光に届けた。
これにより正質公は約束通り、新政府軍へ恭順すべく、当寺に入り謹慎したという。
名前 |
円照寺 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
2.7 |
元禄以降の大多喜城主松平氏のご位牌所だそうです。