飯櫃城登城口に建立されている城跡の標柱石碑に刻まれた碑文は以下である。
飯櫃城は天文元年(一五三二年)清和源氏の裔山室飛彈守常隆の築城にして、上総、下総、六十二城の族頭として君臨す 降ってその孫常陸介光勝は豊臣秀吉の命に抗し、一門一統の将士を飯櫃城に集め、徳川勢、保科弾正の率いる大軍を邀へ激戰三日、天正十八年(一五九〇年)一二月二八日、城兵八百余騎は討死し、落城す (山室譜伝記)訪問記:農閑期を選び訪問。
石碑の建つ場所は恐らく、大手口であろうか。
城山の麓から続く道を駆け上る事約120m、堀状の底面や、土塁に囲まれた郭跡に広がる耕作地が目に入る。
城山の上面は、かなり広域な平坦部となっている。
郭構造はほぼ、当時の様子を窺う事が出来る様だが、その他の構造物は当然ながら残されていない。
成田空港とは近い距離に在る為、旅客機が頻繁に上空を飛行し、その姿はかなり近くて大きい。
よく見ると、ランディング体勢に移行し、ギアを下げているのが分かる。
近代文明が日常的であっても、この城跡の何とも言えない長閑さは、いささかも揺ぎ無い様である。
20分ほど見学し、来た道を返すと、坂道の途中に左へ折れる道があった(登る時は右側)。
この道を進む事220m余り、後ろを振り返ると、ある錯覚に陥った。
この事実は、果たして作為か偶然か。
先程見た光景とそっくりな景色が、またここに在る様に思えた。
それを見た時、ふと、この城の巧妙なトリック(Trick)と戦略性(Strategic)を感じたのだった。
城兵800余騎の戦死は、事実か虚構か定かではないが、籠城戦での勝利に賭ける、その可能性を感じさせる程、良く出来た城であったと思う。
追記:2020年12月31日大晦日原付散歩のついでに立ち寄った岩山城跡、近くに在る飯櫃城について思い出したので、その後の考察について記す。
私説ではあるが、先に述べた郭配置の巧みな錯覚効果が、もしその通りだとするならば、大手口から登った突き当りを曲がったすぐ先に在る左側の土橋は、当時は存在しなかったのではないだろうか。
これがあると、錯覚効果が薄れるばかりか、簡単に主郭部への侵入を許してしまうだろう。
地権者が耕作地の利便性を図る為、後に土を盛ったショートカットの可能性があると思われるがどうか。
因みに、現在、芝山町ウェブサイトにて、飯櫃城最後の攻防戦を描いた漫画『風雲!飯櫃城』(昔どこかで聞いたような響き)が、そこそこのクオリティで閲覧可能である。
是非ともご覧あれ。
※注※保護されていない通信 PDF形式【入り方】芝山町ホームページ(ホーム→観光・歴史→歴史・文化財→歴史→戦国時代の芝山と『山室譜伝記』→風雲!飯櫃城 (ファイル名:manga-hudenki.pdf サイズ:1.60MB)
入口に碑があります。
お堀の名残は有りますが後は畑です。
私有地なので勝手に立ち入ることはできません。
周辺は畑になっているが、城跡(堀)が確認できる史跡。
豊臣方に滅ぼされた事に思いを致すと神妙な気分になりました。
名前 |
飯櫃城跡 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
評価 |
3.6 |
農地になっているが、形状は、残されている。