国を追われた明智光秀は朝倉家に仕え1562〜156...
以前、近所に住んでおり、久しぶりに訪れました。
少しずつ展示内容が充実していき、また、訪れる度に新たな発見ができる場所になっています。
おみくじを新たに始めたようですし、駐車場の近くにある集落センターでは待合所(観光バス用の待合所でしょうか)を開設されたようです。
さらに、土日だけの小さな売店も始めるようで、来訪された方へのおもてなしにも力を入れています。
大河ドラマの麒麟がくるの放映終了後も、ゆっくりですが着実な受入整備を進めており、今度の往訪時にどんなことが起きているのか楽しみです。
先輩知人の案内で「明智神社」へ来ました。
明智光秀公と家族が暮らしていた館の跡地。
[戦国時代~安土桃山時代]明智光秀(1528.3/10~1582.6/13)。
細川ガラシャ(娘:三女:玉(たま)又は玉子)1563~1600.8/25)生誕の地。
境内の石垣にハート型苔が恋愛スポットとして人気があるようです。
資料館で、ビデオ解説もあり、その時代へと溶け込んでみるのも良いかもしれませんね🎵2023.08.14am
明智光秀を祀った小さな神社ですが、地元が観光客目当てに整備されている印象です。
御朱印は近くのお店で書き置きが受領できます。
国を追われた明智光秀は朝倉家に仕え1562〜1567の5年間ここに家族と共に暮らした。
1575年の織田信長軍の越前侵攻時に明智光秀は柴田勝家に「昔俺この村にすんどったで、穏便に頼むわ」と神対応。
後に本能寺の変のクーデター失敗で反逆者扱いされたがこの村人達はいまあるのは明智様のお陰だと三軒の農家で祠のなかに安置されている光秀の木像を密かに守り続けてきたという場所だ。
立て看板に明智一家の住んだ所という案内はあるが往時の遺構があるわけでもなく、また朝倉氏の本拠地一乗谷から峠を越えて5キロも離れており「おまえ、蚊帳の外ね」って扱いが言われなくてもよくわかる。
嫁さんは髪を売って旦那さんを支えたり、後日ブイブイ言わせて三日なりとも天下を取った光秀君の若かりし頃の試行錯誤の苦労が偲ばれた。
小っちゃ。
祠が一つです、神社なのに鳥居もない。
祠の前には小屋がありそこに神社の説明などがあります。
無料の駐車場が有りますので便利です。
御朱印やお守りは別でした。
俗に言う神社とは少し面持ちが違います、当時の状況などが関係有りそうです。
駐車場が少し離れていて神社のところには無いのでご注意下さい。
明智光秀を訪ねる越前ドライブ。
ナビに従い、福井県道25号から238号に入ると程なく駐車場の看板が見えてきた。
綺麗に整備された駐車場に車を停め散策開始、案内地図に従い明智神社を目指した。
長閑な時間が流れている印象。
そんな中に大切に守られた神社はあった。
雰囲気は最高に良い。
明智光秀とその家族がこの地で暮らしていた当時の様子を想像しながら、時間を超えて同じ地に立てた感動を胸に、何かパワーをいただいた感じがした。
明智光秀の屋敷跡と伝わる場所に祀られている小さな神社地元では、あけっつぁまと呼ばれ親しまれており、全国で唯一光秀を御祭神に祀る神社である小さな祠の中には高さ13cm程の木彫りの光秀座像が祀られているまた資料館が本殿の真向かいに設置されており資料や動画が無料で視れる決して麒麟がくるブームで来たミーハーではない因みに境内の一画にハート苔が生えている。
光秀ファンと言わず戦国乱世の時代が好きなら一度は観ておきたい所。
驚くほど質素な祠です。
人は死して名を残しますが一度反逆のレッテルを貼られとこんなにも寂しい雰囲気になってしまうのかと思いました。
一乗谷への距離感も当時の朝倉との距離感を物語っているようで感慨深いです。
神社から少し離れた場所に臨時駐車場があります。
のぼり旗が立ってる方に歩いて行くと神社に行けます。
思ったより小さなお宮でしたが、当時の街道沿いで駐車場から❣️の苔があったり風情がある民家の生活道路を過ごし歩きます。
資料館に御朱印は集落入口にある山本食料品店で300円で販売しているとの事。
お詣りした後頂きました。
大勢で押しかけるような処ではありません。
本当に静かに、集落の中でたたずんでいる小さな神社。
いわれを知ると、ただただ感服します。
簡素な祠と、小規模な資料館があります。
資料館の展示はパネルが中心ですが、説明文は読みごたえがあります。
明智光秀を尊敬する土地は京都や滋賀にもあり、知れば知るほど、反逆者のイメージは後世に作られたように思えてきます。
十台分ほどの無料駐車場が整備されているのは嬉しいですね。
簡単なエリアマップも設置されています。
神社まではここから徒歩で数分です。
一条滝に行った帰りに寄りました。
もともと生家が比叡山の麓の坂本城近くで、そこの城主が「麒麟がくる」でホットな明智光秀です。
こじんまりとはしてますが寄り道にはいいかなと思います。
一乗谷へ行っている途中に、明智神社を見つけて、寄ってみました。
238号線沿いに駐車場があり、そこから奥へ少し歩いて行けます。
明智光秀は、朝倉家に仕えていたときは、東大味のここの明智神社辺りに住んでいたらしいです。
確かに朝倉街道が目の前にあり、越前と京都を結ぶ重要な場所だったのだろう。
雰囲気も良い土地柄でした。
明智神社の近くの西蓮寺の本堂の中に柴田勝家の木像があるらしいのですが、本堂は通常閉まっているようでう。
近くに行ったので伺いました。
駐車場は近くに砂利の臨時駐車場がありますのでそちらに。
9台ほどとめられます。
そちらからは歩いてすぐ。
小さな祠と小屋があり、小屋のなかにはパンフレットなどがありました。
御朱印はありますがこちらではなく、近くの山本食料品店で書き置きがいただけます。
観光用の駐車場から少し町中を歩いて向かいます。
小さな祠がひとつあるだけですが、地元の方が綺麗にされてます。
ホントに明智公を愛していらっしゃるだろうなぁ。
と思う神社でした。
一乗谷からの道のりが良かった。
明智光秀、あけっつぁま。
人々が守り続ける明智光秀の木像。
この村が戦乱の中明智光秀によって救われたという。
3軒の農家が、あけっつぁまを代々守り続けてきた。
神社の敷地には、小さいながらも光秀に関する資料館 (無料) が併設されています。
また、神社の敷地には🅿はありませんが、県道沿いには臨時🅿が有りました。
もしここを訪問する時はこの投稿にある「200m」の看板をみたらそのあたりで車をとめて歩いてくださいね。
ひっそりと世をしのびながら過ごしたであろう明智家を偲んでこのような感じに作られたのかもしれないと思いながらみてました。
4月28日に個人で行きました。
大河ドラマで明智光秀公が、主役で、明智一族の物語が、始まるので、明智神社に行きました。
境内は、広くはなく、個人まりとしていて良い場所ですね。
回りは、民家でした。
明智光秀が、朝倉氏に仕えていた時に住んでいた、場所です。
この地で三女「たま」が、生まれた場所ですね。
数年後に、織田信長公に仕えていました。
手見上げに足利義昭公を連れて来た事ですね。
そしてここから、明智一族の物語が、始まったそうですね。
明智神社の回りに住んでいる村人は、明智光秀公が、この地域住んでいる人たちを戦乱から、巻き込まぬ様にして欲しいと、願い柴田勝定公に明智光秀公が、頼んだそうですね。
その為、村人の保護は素早く行い戦渦から、助かったそうです。
後に、村人は、明智光秀公に感謝し、この地に明智神社を建てたそうです。
とても深い歴史を学べて大変良かったです。
後、とても静かな場所であり、良い神社でした。
大河ドラマ楽しみです。
駐車場は近くの集落センターに止めて欲しいとのことです神社の横に小さい資料館があります。
ガラシャ生誕の里らしいです。
毎年明智光秀公の命日6月13日は法要が行われています。
明智光秀が朝倉氏に仕え、やがて織田信長の配下となり、柴田勝家等と浅井.朝倉攻めをした時、柴田勝家に此の在所は攻めない様に頼み無事だったのに恩義を感じ、旧明智光秀敷地に建った四軒の家が明智光秀の秘仏を小さな祠で400年間護り続けたと云う謂れの所。
小さなところでした😃
名前 |
明智神社 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0776-20-5346 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.8 |
明智光秀が朝倉氏に身を寄せていた時の住居跡。
天正3年(1575年)、柴田勝家が一向一揆を鎮めるために、現在明智神社のある東大味地区に兵を送り込もうとしたが、光秀は住民を守るため勝家に申し入れをしたと伝えられています。
現在に至るまで、東大味の人々は光秀を慕いこの神社を守り続けてきました。
年に一度、光秀の命日である6月13日のみ御開帳が行われ、本尊である光秀の木像を見ることができます。
明智光秀の娘・細川ガラシャ(明智珠)の生誕地でもあります。
福井市観光協会HPより光秀ファンにとっては外せない聖地ですね。
狭い境内の傍らに文久建立のお墓と他4基が確認できます。
時代が古いので何処の何方か興味深いですが、ここの祠を守っていた方のお墓なのでしょうか?近くに駐車場があり、すこし離れた山本食料品店という所で御朱印を購入できます。