家屋と馬小屋が土間を挟んで繋がっている。
曲り家はその名のとおりL字型に曲がっていて、家屋と馬小屋が土間を挟んで繋がっている。
曲り家が普及したのには諸説あるようだが、馬を家の中で飼うとなると臭うだろうし、うるさかろう。
馬が凍死しないようにとか、熊に襲われないようにとかだろうか?いくら大切な家畜と言えどよっぽどの理由があったに違いない。
それにしても、家の外壁のほとんどが土壁で、採光設備らしいものは一部の障子戸と入口の戸ぐらい。
そのため、座敷の奥に進めば進むほど光が届かず薄暗い。
とりわけ狭く真っ暗な部屋があった。
遠野物語ではこうした部屋を座頭部屋と呼ぶとあった。
座頭とは、視覚障害者のための職能組織における階級の一つで、江戸時代には幕府公認の存在であった。
座頭市の影響か、座頭といえば按摩師という印象もあるが、琵琶を弾きながら物語る等の芸能を糧とする者もいた。
そう、座頭部屋とは、宴会などの際に座頭を呼び寄せて、待機させるためだけの部屋だったというのだ。
話は逸れるが、ここ旧菊池家住宅の座頭部屋と思しき部屋には、座敷童の切り絵が施された灯篭が置かれていた。
座敷童が住み着く家は繁栄すると考えられている。
東北地方の各地には、家に座敷童が棲みつくよう、奥座敷に玩具やお供えを用意するという風習があったという。
赤坂憲雄の「境界の発生」(2002.6.10、講談社学術文庫)これによると、人はものごとを内と外に分ける。
それは里と山だったり、生と死だったりするが、その間には必ず境界が存在する。
その境界を越えることが許されたのは共同体にとって異質な存在、とりわけ座頭や旅の僧などであった。
彼らは、客人神と同じく聖性のある存在と捉えられ、外から内に何かをもたらすと考えられていたという。
なるほど。
奥座敷は、座敷童のために用意された聖域であり、家人であっても侵すことができない場所である。
その内と外の境界を越えられる存在が、座頭のような聖性を持つ者であり、座敷童との交信ができる存在として重宝されたのかもしれない。
奥座敷に隣接した座頭部屋をあえて用意したのは、実は宴会で客人をもてなすためではなく、座敷童へ向けた神事だったのではないだろうか?ちなみに、遠野物語に残る座敷童伝承の舞台は、土淵村大字飯豊と大字飯豊(いずれも現遠野市土淵町)であり、伝承園の目と鼻の先にある。
この菊池家の曲り家はもともと小友村(現遠野市小友町)にあり、昭和53年に現在の場所へ移設されたらしい。
記録こそ残っていないが、同じような伝承があったのかもしれないね。
名前 |
旧菊池家住宅 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0198-62-8655 |
住所 |
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評価 |
3.9 |
この辺りでは定番の古民家を移築した展示です🤗