多賀サービスエリアの隣にありますよ。
敏満寺城は、名神自動車道の多賀SA内(上り方向)にある。
上り多賀SA内(前方のGS横)取り込まれた城としては全国でも極めて珍しい存在であろう。
=城郭遺跡の上にSAを造成したもの。
しかし、SA北のはずれにある1郭は、長軸50mほどの広さであるが、公園化され、その周囲には高さ2mほどのしっかりとした土塁が残っている。
また、土塁のそれぞれ隅は、相応のスペースを伴っており、これらは櫓台であったかとも思われる。
(なお、下り方向のSAからも、歩道橋を使えば渡ってくることができる。
)また、天然の沢を挟んで、南側のSA施設のある部分の一段下には、石垣や井戸が存在していたという。
とすると少なくとも2郭はあったということになるが、その部分はSAとなって消滅してしまっているので、全体構造がどのようなものであったのかは、現在ではうかがい知ることはできない。
12~15世紀当時は、比叡山をも凌ぐと言われた大きな寺院。
その勢力ゆえに戦国時代に浅井氏・信長に攻められ寺坊は、焼討ちに合い。
その後も再建されることなくSAの敷地とし現在に至っている。
敏満寺は天台宗の寺院であったという。
つまりこの城は、地元の豪族(六角氏や浅井氏)に対抗するために寺院そのものが要塞化したものであったらしい。
永禄5年(1562)には浅井氏に反抗したため、坊舎のほとんどを焼かれ、さらに元亀3年(1573)には信長に反抗したために、残りの建物もすべて焼かれてしまったという。
天台宗の寺院であってか、たびたび時の支配者に対して自立性を強調していたことが、反抗と見られる。
独自の立場を維持するというのはとても難しいことである。
敏満寺はそのために支配者からたびたび攻撃されて、結局は打ち壊されてしまうことになったのであろう。
朝廷の帰依も得て堂舎が整備され、南北朝、室町時代にはいってからは幕府の保護を受けていたが、しだいに近江守護佐々木氏との対立が激化し、たびたび兵火に遭っている。
このころには比叡山延暦寺の末寺となって守護大名に対抗していた。
戦国時代には、京極氏に背いて六角氏と通じた久徳実時を攻めた浅井長政は、これに味方した敏満寺を攻め、坊舎はことごとく灰燼と帰した。
再建途中にあった敏満寺は、織田信長に焼き払われ、寺領を取り上げられると、衰退の一途をたどり、ついに再建されることはなかった。
敏満寺の概略は以上のようであるが、文献資料が少なく謎が多い敏満寺は発掘調査によってその様相が明らかになりつつある。
昭和61年(1986)の発掘調査では、台地上の西端に虎口を有する土塁、堀に囲まれた防御施設が発見され、浅井あるいは信長に対抗するために築かれたと考えられている。
平成6~12年(1994~2000)の発掘調査(3)では台地上の北東側に溝で区画された建物群や埋甕施設が発見され、敏満寺を中心として都市的な空間が広がっていたと考えられるようになった。
園部一帯は、昭和61年5月〜昭和62年3月まで発掘調査が行なわれ、調査の結果、十五世紀末から十六世紀末にかけての遺跡であり、高く盛られた土塁、深く掘られた空堀から、要塞化した寺院遺構と考えられ、櫓、建物、門、井戸等の跡及び土器類も出土しています。
参考資料:主に多賀町「敏満寺城遺跡」・ 現地案内板を編集ほか。
サービスエリア内で満面の笑みを浮かべてアメリカンドッグに齧り付いてたデヴは私だ。
桜の時期なら綺麗だろうな。
12世紀から15世紀にこの場所に、比叡山を凌ぐような寺院が発展していたそうです。
多賀サービスエリアの隣にありますよ。
琵琶湖を望む古城は、桜の園となっております。
彦根城築城のため石垣に運び去られたそうです。
土塁のみ残っています。
名前 |
敏満寺城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.4 |
多賀SA(登り)にあります。
パッと見公園ですが土塁等が残ってます。