町石(ちょういし)と呼ばれる史跡が計5基見つかった...
おみくじ全てコンプリートしたいくらい可愛い🩷
地元の神社⛩久しぶりの御参拝です🙏ありがとうございます。
猿岩いつ見ても凄いです。
自然に囲まれたパワースポットです。
金山彦神を祀られています。
以前、長崎新聞に『金屋神社参道で、町石(ちょういし)と呼ばれる史跡が計5基見つかった。
江戸時代の1700年前後のものと推測され、県内で確認されたのは初めて。
疫病や災害からの回復祈願や成就御礼のために同神社に奉納されたとみられ、専門家は「当時の人々の暮らしを語る貴重な文化財」』とあったので訪問。
お祀りの一週間前という事で、氏子さん達がその準備をされておられた。
宮司さんも居られ、町石の話しや金屋神社にまつわる様々なお話を伺う事が出来た。
貴重な体験だった。
感謝!
小さな神社ですが、感染対策きちんとしております自然の中にあります。
パワーがある場所だと思いました。
奥宮まで 参拝させていただいたご縁にありがとうございます。
神社自体はすごく雰囲気のいい所でした。
ただ、会話から察するに関係者らしき子供が参拝中ずっと後ろから前から見張られてたのがこわかったです。
お守りが無人販売なので、盗まれないように見張りをしているのかもしれませんが、手水舎で手を洗う間も、参拝のため脱いだ靴を履く際も、ずーっと無言のまま、近距離で見られて気が散って仕方がないです。
話しかける訳でも笑顔でいる訳でもなく目が合っても逸らさないし、子供といっても幼稚園児とかではなくだいぶ大きい子供ですし。
ちょっと怖くてゆっくりできなかったです。
ほんとに見張りのつもりなら、無人販売やめてほしいな…
#波佐見焼#商売繁盛ここは長崎のパワースポットでも知る人は知るパワースポットです。
ここのおみくじの『コンポラ瓶のおみくじ』が珍しいです。
波佐見焼の小さな瓶に入ったおみくじです。
また波佐見焼の陶器でできた御守もあります。
ただここは無人の売り場です。
おつりはありません。
静かなムジンの神社です。
コンポラ瓶のおみくじやお守りが欲しくて行ったけど売り切ればかりで補充されてなくて、無人でもそこはたゃんとして欲しいかも。
波佐見町金屋郷の山中にある神社です。
祭神は金山彦命・伊弉諾命・伊弉冉命・天忍穂耳命。
副祭神に万葉集の撰者の1人とされる橘諸兄公。
その歴史は古く、奈良時代に聖武天皇の勅により、奈良吉野の金峯神社からの勧請で橘諸兄を勅使として創建されたとのこと(西暦732年)。
橘諸兄といえば、同じ波佐見町には諸兄の子孫である渋江氏が創建した水神宮、橘氏の土橋公房が創建した井石神社もあります。
お隣佐賀県杵島郡にも諸兄の子孫が移り住んだという話もあり、この地域一帯は橘氏にとっては縁のある土地だったのかもしれませんね。
主祭神の金山彦命は鉱山の神として祀られていることが多いのですが、波佐見町では戦前まで掘られていた金山があり、活況を呈していたそうです。
創建時に金鉱は発見されていなかったはずですが、昔の人はこの地域に金が眠っていると感づいていたのかなと思いました。
波佐見町中心部から南下して現れる一の鳥居から神社までは2.4kmほどもあります。
神社に近づくにつれて猿岩という岩山が見えてきます。
どうやらこの磐座がこの神社のパワースポットたる根源のような感じがします。
猿岩には登山道があったようなのですが、現在は崩落箇所や倒木、苔むして滑りやすい場所も多く、立ち入るのはちょっと危険な気がします。
また絶滅危惧種であるハヤブサのつがいが営巣しており、このまま猿岩は禁足地になったほうがいいのではないかと思いました。
祭神金山彦命(かなやまひこのみこと)【イザナミから生まれた子】『古事記』では金山毘古神、『日本書紀』では金山彦神と表記する。
※金属および鉱山とその関連業(鍛冶、鉱業ほか)にまつわる神とされる伊弉諾神(イザナギ)伊邪那美神(イザナミ)天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)【アマテラスの子】副祭 橘諸兄(たちばなのもろえ)公金屋神社の由緒(意訳)732年に創建された。
聖武天皇の命令により、奈良県の金峯山の神(吉野山の地主神である金山彦命)をここにもどして祀った。
橘諸兄を使いとして、ここに向かわせた。
その後、社領530石と宝剣2振、金子1000両を寄進した。
12寺6坊を建立し、神社の附属とした。
当時、日本の四方固めの神社の一として、和歌山県熊野山と同等とされた。
1563年、朝鮮出兵の軍を起こす際に、豊臣秀吉が戦勝祈願した(軍船渡海の願いを立てた)。
その後、小西行長を使いとして、願いが叶ったとして、物品を寄進している。
また、小西行長を使いとして、社木六本を伐採させ、軍船の帆柱とした。
1637年、キリシタン教徒が神社に乱入し焼いた。
社人は、御神体を運び、嬉野に逃れ、唐林寺にとどまった。
それから、須古の水堂、安福寺を頼って、須古に移り金谷坊に神体を安置した。
これより1828年まで約200年間、この地にとどまった。
1828年、この時の神職である中山加賀守公明によって、須古より本社に迎えられ、もとの場所に鎮座することができた。
島原の乱の後に荒廃した旧社地に大村藩主の後援により、社殿を建立した。
この時英彦山の神(天忍穂耳命とイザナギ、イザナミ)も祀るようになった。
旧神体が須古にあった時、大村領内に神礼を配布することが許可された。
神体がもどってきた後、1848年から再び大村領内で神札を授与することが許可された。
四ケ浦地方一帯は、もとの社領地だったと推定されている。
神社に関係がある古蹟のあるところも少なくないからだ。
また、この地方はもとの本社の氏子の住む地域であるという社伝がある。
金屋神社宝物古文書一 御紋章入御綸旨箱二 錦の幕切三 神社創建の勅書四 社領寄進の勅書五 太刀金子寄進状六 豊臣秀吉感状七 小西行長覚書八 大村藩神札配布許可書九 御神体譲渡證十 松原村御初穂料納付書(其の他)平成四年四月吉日境内碑文より転載。
参拝させて頂いた日はどなたもいらっしゃいませんでした。
参拝後お社の中に入り、御守りと御守りをいただきました。
お金は賽銭箱に入れるようになってます。
祭神金山彦命(かなやまひこのみこと) 【イザナミから生まれた子】 『古事記』では金山毘古神、 『日本書紀』では金山彦神と表記する。
※金属および鉱山と その関連業(鍛冶、鉱業ほか) にまつわる神とされる 伊弉諾神(イザナギ) 伊邪那美神(イザナミ) 天忍穂耳命 (あめのおしほみみのみこと) 【アマテラスの子】 副祭 橘諸兄(たちばなのもろえ)公金屋神社の由緒(意訳) 732年に創建された。
聖武天皇の命令により、奈良県の金峯山の神(吉野山の地主神である金山彦命)をここにもどして祀った。
橘諸兄を使いとして、ここに向かわせた。
その後、社領530石と宝剣2振、金子1000両を寄進した。
12寺6坊を建立し、神社の附属とした。
当時、日本の四方固めの神社の一として、和歌山県熊野山と同等とされた。
1563年、朝鮮出兵の軍を起こす際に、豊臣秀吉が戦勝祈願した(軍船渡海の願いを立てた)。
その後、小西行長を使いとして、願いが叶ったとして、物品を寄進している。
また、小西行長を使いとして、社木六本を伐採させ、軍船の帆柱とした。
1637年、キリシタン教徒が神社に乱入し焼いた。
社人は、御神体を運び、嬉野に逃れ、唐林寺にとどまった。
それから、須古の水堂、安福寺を頼って、須古に移り金谷坊に神体を安置した。
これより1828年まで約200年間、この地にとどまった。
1828年、この時の神職である中山加賀守公明によって、須古より本社に迎えられ、もとの場所に鎮座することができた。
島原の乱の後に荒廃した旧社地に大村藩主の後援により、社殿を建立した。
この時英彦山の神(天忍穂耳命とイザナギ、イザナミ)も祀るようになった。
旧神体が須古にあった時、大村領内に神礼を配布することが許可された。
神体がもどってきた後、1848年から再び大村領内で神札を授与することが許可された。
四ケ浦地方一帯は、もとの社領地だったと推定されている。
神社に関係がある古蹟のあるところも少なくないからだ。
また、この地方はもとの本社の氏子の住む地域であるという社伝がある。
金屋神社宝物古文書一 御紋章入御綸旨箱二 錦の幕切三 神社創建の勅書四 社領寄進の勅書五 太刀金子寄進状六 豊臣秀吉感状七 小西行長覚書八 大村藩神札配布許可書九 御神体譲渡證十 松原村御初穂料納付書(其の他)平成四年四月吉日境内碑文より転載。
名前 |
金屋神社 |
---|---|
ジャンル |
|
電話番号 |
0956-85-6728 |
住所 |
|
関連サイト | |
評価 |
4.0 |
帰路の途中、看板を見て参拝させていただきました。