安政四年(1857)4月、旗本(はたもと)や御家人...
軍艦操練所(そうれんじょ)跡所在地 中央区築地六丁目二〇番地域ペリーによる黒船艦隊の来航後、西洋式海軍の必要に迫られた江戸幕府は、安政四年(1857)4月、旗本(はたもと)や御家人(ごけにん)、諸藩の藩士等から希望者を集めて、航海術・海上砲術の講習や、オランダから輸入した軍艦の運転を練習させる目的で軍艦教授所(後の軍艦操練所)をこの地にあった築地講武所(こうぶしょ)内に創設しました。
万延元年(1860)正月に講武所が神田小川町(現在の千代田区)に移転をした後には、跡地一帯は軍艦操練所の専用地とされました。
元治元年(1864)3月には焼失して、南隣りの広島藩主浅野家下屋敷のあった場所(絵図では松平安芸守蔵屋敷)へ仮移転をしています。
設立当初が旗本 永井尚志 が総督をつとめ、長崎の海軍伝習所修業生を教授方としていました。
その後、向井将監や勝海舟等が頭取をつとめました。
慶応元年(1865)7月、新たに海軍奉行を置き、慶応二年(1866)7月には海軍所と改称されました。
同年11月には再び類焼して現在の旧浜離宮の地に移り、跡地には、日本最初の様式ホテルである築地ホテル館が建てられました。
といったことが書いてあります。
軍艦操練所は1857年(安政4年)築地講武所内(現在の築地中央卸売市場)に幕府により設けられた。
オランダから寄贈された観光丸で乗組員の操練を行っていた。
本当に立て看板だけでした。
名前 |
軍艦操練所跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
評価 |
3.5 |
築地場外市場の勝鬨橋側に看板だけありました。