桶狭間の戦いツアー6ただの公園です。
⭐️桶狭間の戦い史跡巡り⭐️~鳴海城址と鳴海宿周辺史跡~・公園自体に遺構は無いです、東側の「天神社」内に鳴海城跡碑と説明板🪦別名/根古屋城。
・公園左側の道を北西方面に下って行くと「東福院」が在所、東福院山門に鳴海城廃材を活用したとの伝承、約460年前の木材⁉️・鳴海城跡公園から天神社辺り一帯が鳴海城、その他に鳴海宿本陣跡の説明板や復元鳴海宿高札場などを見ると鳴海宿の少なからずの名残りですね❗️⭐️興味深い武将⭐️【岡部元信(長教)】①1560年(永禄3年)…桶狭間の戦い🐎・今川義元討死、今川本隊壊滅し駿河に撤退、今川方/松平元康(徳川家康)勢も大高城から急ぎ岡崎に撤収🏃鳴海城だけが最前線に孤立 、城将/岡部元信、開城撤退せず籠城抵抗し織田勢の攻撃部隊を撃退、信長も手こずる😅交渉し「今川義元の首級と鳴海城開城」を交換条件に本国駿府へ帰還、ヘェ~😲②1581年(天正8年)…第2次高天神城の戦い🗡️・1575年長篠設楽原の戦いで武田軍大敗、徳川家康は遠江の武田方拠点/二俣城や諏訪原城を攻略、武田勝頼後詰に対応出来ず孤立した高天神城そして城将/岡部元信、徳川家康は兵糧攻め、最後は徳川方に対し武田方全城兵突撃し討死玉砕🐎⭐️vs織田信長(今川武将として)・vs徳川家康(武田武将として)、歴史上の大一番の戦に、何の因果か「岡部元信」2回登場、これも歴史か⁉️⭐️名鉄/鳴海駅から近く、車も周辺にコインパーキング多数あり、訪問しやすいです🚙🚶🚃
天神社に城址碑が立ち、向かいには鳴海城跡公園があるものの遺構は皆無。
住宅地の児童公園で遺構は全く見られません。
城址碑や説明板は道を挟んだところ天神社に設けられています。
史上名高い鳴海城の跡ですが、児童公園になっていて標札以外それらしいものは見当たりません。
しかし高台になっていてかつての城跡の雰囲気は十分味わえました。
南の道路を隔てたところに小さな土塁がありますが、鳴海城オリジナルのものなのかは不明です。
良い(原文)Good
土塁が残存してますが踏査出来ず。
公園の凹みが主郭跡なのか?
鳴海城(なるみじょう)は、かつて愛知県名古屋市緑区鳴海町城に存在した日本の城である。
別名「根古屋城(ねごやじょう)」。
戦国時代の天文年間には尾張国の織田信秀の支配下にあり、配下である山口教継が駿河国の今川義元に備えるべく城主を務めていた。
しかし信秀が没すると、息子の信長を見限った教継は今川氏に城ごと寝返った。
その後、教継は息子の山口教吉に鳴海城を任せる。
天文22年(1553年)、信長は800の兵をもって鳴海を攻めるが落とすことができなかった。
やがて教継父子は義元により切腹に追い込まれた(これは信長の計略によるともいわれている)。
結果的にいつ寝返るかわからない外様の山口氏から今川家譜代の岡部元信に城主が変更され今川家直轄の重要拠点になった。
これに対抗すべく、信長は永禄2年(1559年)ごろに鳴海城の周囲に丹下砦、善照寺砦、中嶋砦を築いた。
桶狭間の戦いツアー6ただの公園です。
少し小高くなっているあたりが、お城を思い出させます。
今川義元が、鳴海城を目指さずに、大高城を目指したのも分かるような気がします。
現在は公園になっていて遺構などはほとんどありませんでした。
ですが鳴海城の近くの寺や神社等を巡ったりしてると何となくどういう城かがわかってきました。
なので【公園だけ散策】ではなく【公園と周りの寺、神社を散策】した方がよろしいかと。
あ、あとここから歩いて15分くらいのところに砦跡の公園があるのでそちらの散策も推奨します。
名前 |
鳴海城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.1 |
現在は公園になっています。
これといった遺構はありません。