土蔵、厩、城門3棟を残して焼失した。
柳川市指定史跡柳川城本丸跡柳川城は関ヶ原の戦い後、田中吉政の時代に大きく改修され5重天守があった九州を代表する城郭でした。
元和6年(1620年)柳川藩旧領を回復した立花宗茂が12万石で入封して以来、立花氏の居城として明治維新を迎えます。
明治5年(1872年)失火により本丸二の丸を焼失し天守も失いました。
その後の城跡は学校として利用され現在に至ります。
本丸の天守台跡は柳城中学校の運動場の一角にあって石垣の一部を残していますが、本来の天守台は高さが8mありました。
しかし明治7年(1874年)台風で決裂した海岸堤防の補強に石垣が転用され現在では一部を残すのみです。
この本丸天守台跡は柳川市指定の史跡になっています。
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柳川高校と柳城中学の間にあります。
雰囲気が良い。
なんか寂しいです😔天守閣が残ってたらって考えます…立花宗茂が大好きなんで🙇
初めて行きました!駐車場も路駐なら軽自動車で大丈夫でした!
現在は学校の敷地内にあるようで、とりあえず車では行けませんでした。
本丸跡地の掲示板は表道路付近にありました。
在りし日の柳川城の写真が掲示されてます。
授業中の撮影はご遠慮くださいとのことです。
Please do not shoot during class.
1872年2月26日城郭は火災で櫓1基、土蔵、厩、城門3棟を残して焼失した。
かつての城跡は柳川高等学校と柳城中学校のキャンパスとなった。
遺構は天守台、石垣、堀が柳川城本丸跡として残っている。
天守台跡は柳城中学校の運動場の一角にある。
天守ほ石垣に囲まれた本丸南西隅に造られた。
幕末・明治期に撮影された古写真や文献で見るところによると複合式5重5階の層塔型天守と考えられている。
最上階が熊本城天守などのように雨戸で廻縁を覆う内縁高欄であり、破風の配置は福山城天守や徳川大坂城天守に類似するものであったと推測されている。
明治5年に失火もしくは放火によって焼失した。
小野英二郎1864年7月〜1927年11月筑後国柳河藩士の子福岡県出身の財界人。
柳川藩士の家に出生。
立花四天王の小野鎮幸の末裔と言われることが多いが、小野鎮幸嫡系の大組組頭世襲家の小野家との関係は不詳。
1880年同志社英学校2年に入学。
1883年新島襄から洗礼を受ける。
1883年末、徴兵令改正により私立学校は徴兵免除の特典を受けられなくなったため、官立学校への転校を図るが失敗した。
1884年オバーリン大学に留学。
大学卒業後はミシガン大学大学院に進み、Ph.D.を取得。
この時デトロイト・トリビューン紙は、「日本の小野英二郎、大学における外国人の注目すべき業績」という見出しで大きな記事を載せた。
これは日本経済についての英語による初めての学術研究でもあった。
帰国後、橘蔭学館教頭を経て、同志社に赴任。
同志社政法学校の創立事務を担当し、1891年の開校後は教頭に就任する。
1896年日本銀行総裁川田小一郎の招きにより日本銀行に入行、同志社を去る。
その後日本興業銀行に移る。
1924年第4代日本興業銀行総裁に就任した。
1927年在職中に心臓麻痺で死去。
息子に、長男でロシア文学者・生物学者・社会運動家の小野俊一(その妻はヴァイオリン教師の小野アンナ)、美術評論家の税所篤二、足利赤十字病院創設院長の小野康平、オノ・ヨーコの父親で銀行家の小野英輔、らがいる。
娘の寿満子は初代国連大使の加瀬俊一の妻。
孫に、音楽家・芸術家のオノ・ヨーコ、彫刻家の小野節子、外交評論家の加瀬英明、地理学者の小野有五、画家の石井茂雄、等がいる。
音楽家のショーン・レノン、映画プロデューサーの小野光輔は曾孫。
天守にかける市民の想いを感じるパネル復元と夜間ライトアップが素晴らしい。
名前 |
柳川城 本丸天守跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.7 |
由緒ある場所。
公園になっているが雑草が凄く、荒れている。