百城山三宝寺跡。
三宝寺跡薬師堂 放牛和尚墓碑 / / .
放牛和尚(享保十八年没)の墓、鎌倉時代の石がのせてあり不思議な感じがある、「自在放牛」とあり、熊本で石仏造立した「他力/陀力放牛」とは違う人物の様子。
(没したのが半年しか違わず、同名の坊さんが同時期に二人いたことになる)山奥の方にすすむと、城親基の墓がある(わかりにくいが)ここは坂の途中で、行く道はクルマの幅はあるものの切り返し場所がないので、近くの安全な場所に停め、歩いて詣でるのがおすすめ。
名前 |
三宝寺跡薬師堂 放牛和尚墓碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.5 |
百城山三宝寺跡。
肥後の高僧「寒巌義尹」が起こした大慈寺、その六世の東舟義勝を招いて1423年に作られた曹洞宗寒巌派の寺院。
仏像は全く分からないが、戦後の火災で木造薬師如来坐像が一部焼けてしまったが、寒巌派を思わせる作りで歴史的価値は十分あるそうだ。
熊本の歴史を学ぶ上で寒巌義尹とその弟子の大智禅師はよく出てくる。
その影響力の高さを思わせる。
〇tips.放牛について開山さん石像は享保10年に作られ「放牛代」と書かれている。
この時の住職と考えられているが、同年代に熊本市方面で放牛地蔵を作っていた「他力(願主)放牛」とは別人と思われる。
・放牛和尚墓碑には 享保18年5月4日 上座 自在放牛・横手町の放牛の墓には享保17年10月8日と刻まれており時期が半年ほどズレている。
「放牛代」=「自在放牛」≠「放牛」と考えるとして、全くの無関係だったのだろうか?放牛は地蔵を作る前に30年修行したそうなのでその頃になにか縁があったのかもしれない。