ひめゆりの塔と同じく女学生学徒を慰霊する碑周辺に三...
白梅之塔です。
白梅学徒隊は、主に沖縄県立第二高等女学校四年生の生徒で編制され、兵士の看護にあたりました。
沖縄戦では、あの有名な姫百合学徒隊以外にも他の学校の生徒を集めて作られた学徒隊は複数存在しています。
そのうちの一つが白梅学徒隊です。
1945年3月6日に56名が従軍補助看護婦として第24師団衛生看護教育隊に入隊し、同年3月24日に米軍の攻撃激化に伴い看護教育は打ち切られ、八重瀬岳中腹にある第24師団第一野戦病院に46名の生徒が配属されました。
同年4月1日に米軍の沖縄本島上陸作戦が始まり、6月4日に日本軍最後の防衛線が設定された八重瀬岳に戦火が迫ると学徒隊に解散命令が下りましたが、残留者が後退した第24師団第一野戦病院壕で勤務を続け、6月21日から22日にかけての米軍の猛攻によって、白梅之塔近くにある壕で戦死したと言われています。
最終的には白梅学徒隊46名のうち22名が戦死でした。
今ある白梅之塔のすぐそばに、とても小さい自然石製の初代白梅之塔があります。
戦後日本における平和は、このような方々の尊い犠牲によって成り立っていると心から感じる場所です。
犠牲者のご冥福をお祈り致します。
自分自身、沖縄に来るまで白梅学徒隊の存在すら知らなかったのですが、今を生きる者として当時ここで何があったのか知っておくべきと思いました。
これから訪れる人は是非調べてみてください。
白梅学徒隊は、沖縄県立第二高等女学校の生徒が看護要員として動員された学徒隊白梅学徒隊の戦死者 66人生徒(学徒隊46人中17人、その他41人)、教職員(引率0人、その他8人)沖縄県立第二高等女学校は、1905年に那覇市女子技芸学校として久茂地に創立され、1921年に那覇市立実科高等女学校となり、1923年には松山に移転。
1928年に沖縄県に移管され、沖縄県立第二高等女学校となる。
1944年の十・十空襲で校舎を消失。
戦後学校は再建されなかった。
普通教育を主として、音楽や美術などの芸術科目に力を入れた学校でした。
「白梅」は松山に移転したときに定められた校章にもデザインされた学校のシンボル。
沖縄戦で、1945年3月24日白梅学徒隊として編成され、最上級生の4年生46人が動員された。
東風平村(現八重瀬町)富盛の第24師団第1野戦病院に配属された。
沖縄県立第二高等女学校の生徒からなる学徒隊の最後の場所である。
八重瀬岳の第24師団第1野戦病院解散後、16人の学徒がたどり着いたのが上の壕(眞山之塔裏)、下の壕(白梅之塔側)と呼ばれた真栄里の自然壕である。
上の壕は食糧弾薬倉庫、下の壕は傷病兵の看護場所で、学徒らは負傷兵の手当てを手伝った。
6月21日に下の壕が、翌22日に上の壕が米軍の激しい攻撃を受けた。
白梅之塔には学校関係者149人が合祀されている。
敷地内には国吉住民が建立した「萬魂之塔」がある。
戦争によって犠牲になった女学生たちの慰霊碑です。
ひめゆりの塔と違い静かなさとうきび畑の中の小高い丘の中腹にあります。
道路を挟んで白梅の塔と駐車場があります、トイレも併設されていますが、自販機等は無いので、飲物は持参しないと現地では買えません。
南部の観光スポットを探していて、ここを知った方は、ひめゆりの塔ともそれ程離れていない白梅の塔も慰霊に訪れる事をお勧めします。
ただ、関係者の方達にとって大切で特別な場所です、観光地ではありません。
静かに慰霊に訪れてください。
いつもひめゆり学徒隊が取り上げられるのが多いですが、いろんな人が亡くなっているのが戦争ですね。
戦跡をめぐる旅いろんなところに行けて良かったです!ところでバックナー中将が亡くなったのは狙撃かな?私は知らない!
ひめゆりの塔と同じく女学生学徒を慰霊する碑周辺に三二軍終焉の地もあり軍人の遺族もよく慰霊する場所。
大切な場所です。
お水を置いてきました。
悲しくなる場所でした。
壕は中に入れる場所もありますが、清い気持ちで平和を祈りました。
沖縄には数多くの戦争犠牲者の祈念碑があります。
その一つ一つに氏名や経緯についての記載があり、それを確かめる義務が私達にはあるのではないでしょうか。
白梅の塔は実際に訪れるのは初めてでしたが、改めてそう感じました。
駐車場、トイレもあります。
「ひめゆり」みたいに、あまり観光客は居ません、、、数回行きましたが、一人も会った事がないので。
「ひめゆり」に行くなら、こちらも。
青山先生のお話で知り、訪れました。
ナビでは場所が出てこなかったので「糸満市字真栄里1837-1」を入力。
しかし道中、真新しい看板が所々にあり迷わず行けました。
豪の中に入ることができ、それは貴重な体験でそこには戦争の悲しさがありました。
那覇以南は 一般生活の中で畑や民家の間に日本で最も重要で神聖な場所が散りばめられた地域です。
青山繁晴議員から聞いて、白梅之塔参拝だけの為に、先日沖縄に行って来ました。
カーナビでは行けませんでした。
民家を尋ねたら白梅の女学生と同じ年頃の娘さんが、道案内して下さり助かりました❗️きっとあの世から白梅の女学生が導いて下さったんだと思いました‼️(^-^)
発掘調査して来ました。
あまりにもひめゆりの搭と違い冷遇されている。
こんな不条理があって良いのか?
ガマに入り腰を下ろし眼をつむり言いえない感覚。
沖縄県立第二高等女学校の生徒からなる学徒隊の最後の場所である。
八重瀬町富盛に所在する八重瀬岳の第24師団第1野戦病院解散後、6月4日以降に16人学徒隊が移動して辿り着いた豪である。
昔から変わらぬ景色がありました。
観光地では無いので、整備状態は評価せず、防空壕の階段は滑るので気を付けて、懐中電灯持っていった方が良いです、近くに売店等無いので、献花するならあらかじめ用意して下さい、静かに手を合わせて帰ります。
ひめゆりの塔ばかりが有名で半ば観光施設化されている。
ここは静かに眠っていられるのではないか。
悲劇と平和の道具にされないように祈る。
合掌。
ひめゆりが大きく取り上げられ過ぎ、ここを訪れる方は疎らです。
しかし、供養はしっかりされている様です。
全ての女学生軍属の方々のご冥福をお祈りします。
青山繁晴さんが、おすすめをしています。
ひめゆりの塔ほど観光地化されていないところが良いですね。
白梅学徒隊の方が自害されたという洞窟が砂利道の脇にぽっかりと口を開けていて、階段で底まで降りていけます。
横には白梅の塔という石碑があって、歴史が書かれています。
この付近には他にも、入って中を見れるような防空壕跡などがありますけど、まったく観光地化されていないので、悲劇の歴史の地を訪ね歩いてみたいという方には最適だと思います。
アクセスはタクシーかレンタカーしかありません。
駐車場はありますので、レンタカーが良いと思います。
合掌!記憶を風化させず、悲劇を伝え、平和の世界を築いていきましょう。
ひめゆり学徒の少女達と、同じように、沖縄戦の犠牲者です。
集団自決の塔もありましたけど毎年、6月23日慰霊祭には、黒い揚羽蝶が、たくさん飛びます。
制服を着た、彼女たちの妖精のように…平和の誓いをささげます。
ひめゆりの塔と違って周りはサトウキビ畑と草むら。
昔、何があったのかを想像して、黙想しました。
探しても行くとこだと思います。
青山繁晴さんの書籍で有名です。
名前 |
白梅之塔 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.6 |
私が子供の頃は、学徒隊と聞くと大人だと思ってました。
しかし、大人になってからは、彼女たちがまだ高校生であり子どもだったんだという現実を自覚し悲しくなりました。
彼女たちは当時としては高校に通えるほど裕福だったでしょう。
きっと、おしゃれ、恋愛、友達との交友に花を咲かせたい時期だったのは今の高校生と変わらなかったでしょう。
なのに、戦場へ駆り出され地獄を見て命をかけ働いたのにも関わらず突然の解散命令のあと、どう思ったのだろうか?どんな気持ちでここにたどりついたのだろうか?と思うと胸が苦しくなります。
ひめゆりの塔とは違い、決して派手ではない場所ですが彼女たちのバックグラウンドを知り、訪れるとより特別な場所に感じます。
彼女たちが生きた証を後世にも残し、歴史を語り継がなければならないと思いました。
修繕プロジェクトで足場が綺麗になりました。
車椅子の方たちでも手を合わせることができます。