竹やぶを切り開いた場所にあります。
私有地でしょうが整備、開放していただき感謝です。
信光公の時代は竹林ではないので蚊も余りいないでしょう。
松平郷から進出した泰親公城跡、感慨深い。
岩津天満宮から橋渡ると登り口あります。
主郭、各曲輪、土橋、土塁、虎口、空壕など見所あります。
竹やぶを切り開いた場所にあります。
ヤブ蚊が大量にいるので虫除けスプレーが必須です。
私は腕カバーをしていましたがこれは有効でした。
徳川家康の先祖、松平3代信光 築城の岩津城址です。
今の豊田市市街地の東部、松平郷に勃興した松平(徳川)氏は、より広い穀倉地帯を求めて南へ領土を拡張するため最初に進出した場所とされています。
此処を拠点にグングン南下し徳川家康出生地の岡崎市街地や愛知県有数の穀倉地帯である安城市へ拡大していく様が手にとるようにわかる地点にある城址です。
15年以上まえに一度伺った時は、入口付近まったく整備されておらず民家の脇の竹藪を分け入りながら見学しましたが、今は登城通路も整備され落ち葉や赤土の道に気をつけながら歩けば入口から5分くらいで本丸(主郭)の広場まで行けます。
主郭を取り巻く空堀も残り土橋まえには馬出しと、中世城郭の様相をよく遺した見事な城跡です。
戦国期前半の城郭なので石垣等の遺構はありませんが、森に囲まれた竹林の葉音を聴きながらじっくり散策するには丁度いい城跡だと思います。
入って直ぐ右手に平坦地があり、何やら石塔も立って、空堀の南側で曲輪の址なのでしょう。
左手にも曲輪らしき地形があり、右手に空堀が続いているが城址への道が判らないので、対岸に土塁の切れ目らしき所が見えたので、そこに向かって空堀を渡りました。
空堀は深さ1-2m位なので、大した事は無い。
どうもここはⅡ郭の西側のようです。
Ⅱ郭から先に進むと土橋が見えたので、やっと自分の立ち位置が判明しました。
Ⅱ郭から馬出に入り、主郭への土橋の前に立っているのです。
主郭南の虎口から入ると南面に土塁があり、城址碑も建って、北面は土塁も無く、下に削平地が段になっています。
主郭南と西の空堀と言い、馬出などを見ると松平氏が岩津に進出した時代のものでなく、その後相当手が入っていることを実感する良い城址です。
駐車場から主郭まで10分。
(2010年登城)
案内板にはここ、岩津城址は信光明寺の裏手の丘にあり、松平三代信光が、この地方の勢力を伸ばす本拠地としたといわれる岩津城の跡です。
築城は、叔父の松平二代の奉親とともに1421年に加茂郡松平から岩津に進出を果たしたことに始まるとされています。
この山城は、戦国時代の様相を示す優れた縄張構成を持つ城郭で、中世のほぼすべての要素が揃っている重要な遺跡です。
と書かれています。
そして松平信光は、その後西へ勢力を伸ばし、やがて安祥城を攻略して居を移します。
しかし、その後も岩津城は松平氏の重要な支城となり、色々ありますが松平一族らが城主となります。
そして今川氏に属していたころに廃城となったと言われています。
ちなみに信光明寺は岩津城主の松平3代信光が1451年に祖父親氏・父泰親の菩堤のため、岩津に創建したお寺で「松平親氏、松平泰親、松平信光」のお墓があります。
に。
住宅街の中にある。
岩津天満宮が目印。
まだ、整備中の公園のようです。
加茂郡松平郷より岩津に進出した松平三代・信光公が応永28年(1421)に岩津を拠点としていた中根(岩津)大膳を滅ぼし岩津城を築城、後に長男の親長公に譲り松平惣領家の岩津松平家が勃興。
しかし、永正の三河大乱で今川氏親公とその叔父・伊勢宗瑞公が率いる今川勢に攻められ岩津松平家は滅亡し、惣領家が安城松平家に移る。
岩津天満宮に続く東名高速道路の高架手前に案内板があり、岩津城に続く細道があるが私有地のため立ち入ることはできず、城の西側より入る(中華料理 四川やシェ・カズがある丁字路の横道から東に進み、突き当りの民家の脇道から)。
城跡は一面竹藪となっているが、数年前より地元の方や岩津中学校の岩津城址清掃活動により主郭部の竹が間伐されて整備されつつある。
訪問する際には周辺に駐車する場所が無いので注意が必要。
堀がデカくて、オススメ。
案内板の左側の道を登りきったら左に曲がる道があります(見逃しやすい)、道沿いに道祖神?が3つあり伝って行くと、石碑がありますよ、空堀?らしきものもあります。
名前 |
岩津城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.7 |
「どおする~」効果もあってか、キレイに整備され、訪問しやすくなっていた(ずっと前は竹藪かき分けかき分け……)。
縄張り図も掲示され、全体像がイメージしやすい。
「この先戦国時代」の看板も妙😍主郭前の空堀は深くて見事。