名前 |
久慈城 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.8 |
2021年6月21日に見学しました。
登り口の前に説明板が設置されています。
階段を昇ると牛頭天王社があります。
主郭に至るまで、ジグザグに坂道を昇ります。
典型的な平山城です。
豊臣秀吉の廃城令で破却され、焼け落ちたと伝わっています。
城主であった久慈氏は、南部光行の子、朝清が祖だとされ、南部氏の庶流にあたります。
久慈修理助治政の養子となった久慈氏12代、備前守信実が、文明年間の1469年~1487年に築城したのではないかと考えられています。
つまり、秋田県横手市の金沢柵から落ち延びてきた金沢家信(大浦光信の父)が、文安2年1445年の段階では、ここに城は、まだ無かったことになります。
この地で生まれ育ったであろう大浦光信が、鰺ヶ沢の種里城に入部するのは、1491年ですので、この城から津軽へ旅立って行ったと思われます。
九戸政実の乱に加担した久慈備前守直治は、降伏後に栗原郡三迫岩ケ崎で斬首され、久慈氏の主家は滅亡しました。
彼の父信義の弟、十郎は、大浦氏の養子となり、元亀2年1571年に弘前市の石川城を攻め、南部氏から独立しました。
彼こそが、後の津軽為信だと言われています。
ここ、久慈が、津軽氏を産んだようにも感じられます。