名前 |
専光寺 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0968-57-0255 |
住所 |
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評価 |
4.6 |
浄土真宗安養寺(あんにょうじ)塔頭(たっちゅう)(子院)専光寺豪潮(ごうしゅう)律師の生家豪潮律師は、寛延2年(1749) 専光寺(せんこうじ 現・岱明町高道)の次男として生まれました。
幼いころから知才に優れ、7歳で仏門に入り、霊験寺(れいげんじ 現・荒尾市野原)の豪旭(ごうきょく)のもとで修業し、16歳で天台宗の総本山である比叡山延暦寺に入りました。
そこで13年間修業し、遍照金剛大阿闍梨、権大僧都法印、伝燈大師の階位と広海の尊号を受けるほどの高僧となりました。
安永5年(1776)に師僧の豪旭の円寂に伴って玉名市繁根木の天台宗壽福寺に移った。
師の豪旭の後を継いで、壽福寺の住職となった。
豪潮は、壽福寺において師の跡を継ぐにあたり、寺が所蔵する酒器類の一切を粉砕して捨て去り、蔵米を貧者に分け与え、「葷酒不許入山門」として全ての酒類は山門より入るのを許さず、「持律堅固」であり僧として戒律を堅く守る決意を檀家や信徒に示した。
また、準提仏母への信仰が厚く粉骨砕身の苦行を自らに課して、『準提法』を行じるときは精進の上で「火の物断ち」という火が通った食べ物を一切口にしないことにして、そば粉を水で練ったものを食するのみで、出家の行ないである「三衣一鉢」(さんねいっぱち)という三枚からなる僧衣と食器以外は、自身の財産となるものを一切持たない生活を続けた。
これを伝え聞いた、九州・四国・中国地方の諸侯が競って豪潮律師に帰依し、貴賎の別なく数多くの僧俗の老若男女を教化した。
豪潮は、僧として書画に優れ、豪放かつ緻密な作品を数多く残しており、後世に高い評価を受けています。
また、当時の社会不安を取り除き、仏の力で世の中に平安をもたらそうと、宝篋印陀羅尼経文(ほうきょういんだらにきょうもん)を納めた塔を建立することを思い立ちました。
享和2年(1802)、大興善寺(現・佐賀県基山町)に建てた塔を最初として以来、17年間に渡り全国各地で2千余りの塔を建てたといわれます。
玉名市内では現在3基の宝篋印塔があります。
生誕寺の専光寺には、豪潮が使用したいたと伝えられ筆をはじめ、豪潮ゆかりの品々が所蔵されています。
豪潮の晩年は、文化14年(1818) 尾張国(現・名古屋)の藩主徳川斉朝に招かれて岩窟寺や長栄寺の住職となり、天保6年(1835) 87歳の生涯を閉じました。
当時の僧侶の教養として書を学び、唐墨を用いた独特の書風をものにした。
出身地の九州では能書家としても知られていて遺されている作品も数多くあり、北島雪山(1636-1697)・秋山玉山(1702-1764)らと共に「肥後の三筆」と称えられる。
また、和歌や文人画等にも通じていて作品もあり、同時代の禅僧・仙厓和尚とも個人的な交流があった。