下宮を晴気・岩蔵及び唐津市厳木町廣瀬の三社を祀る。
天山神社(岩蔵 下社) / / / .
奈良の天河大弁財天社の元宮ともいわれている神社だそうです。
手水舎は、入り口に流れる小川になっており、冷たくて気持ちよく参拝できます!
ご祭神は多紀都昆賣命 市寸島昆賣命 多紀理昆賣命。
創建年は古く、大宝2年 702年との事。
全体的に歴史があるなぁと感じられる雰囲気。
ご祭神は多紀都昆賣命 市寸島昆賣命 多紀理昆賣命。
創建年は古く、大宝2年 702年との事。
全体的に歴史があるなぁと感じられる雰囲気。
名前 |
天山神社(岩蔵 下社) |
---|---|
ジャンル |
/ |
住所 |
|
評価 |
3.9 |
岩蔵天山神社天山神社は、天山近くに上宮を、下宮を晴気・岩蔵及び唐津市厳木町廣瀬の三社を祀る。
勧請記によると大宝二年(七〇二)九郎安弘が文武天皇の口宣を蒙り、建立した。
祭神は、多紀理姫命・市寸島姫命・多紀都姫命である。
天正十八年(一五九〇)に鍋島直茂により社殿を再建されている。
天山神社には二つの鳥居がある。
一の鳥居は小城藩二代藩主鍋島直能が寛文五年(一六六五)に建立・寄進したものである。
現在のものは再建されたものである。
二の鳥居は慶長一七年(一六一二)佐賀藩祖鍋島直茂、初代勝茂、小城藩初代元茂、神代家良によって寄進されたものである。
小城藩の祈願所として崇敬された。
天山神社の祭礼は毎年五月一日の御田祭、十月一五日の祭礼(供日)が知られる。
10月一五日の祭礼は天正年間以来、小城郡七郷と多久納所で大行司・小行司に分かれ隔年に注連縄元を勤めてきたが、寛永一四・一五年(一六三七〜八)の島原の乱のとき小城藩家老持永助左衛門は天山神社に戦勝祈願をし、祈願成就のため小城郡七郷と納所を二つ分け両注連元で石木刈より行列をしたてて参詣したことが例となったという。
岩蔵六ヶ村は注連元から除いて、前日の十月一四日夜に浮立て・狂言を興行するのを例とした。
現在は10月十五日に近い日曜日を祭日とする。
平成 二二年八月 小城市教育委員会社頭掲示板天山神社由緒と沿革一、祭神多紀都毘賣命 市寸島毘賣命 多紀理毘賣命一、由緒と沿革(一九九一年記)小城郡小城町大字松尾岩蔵二三四八番地鎮座当社は、文武天皇大宝二年(七〇二年)国宣によって建立せるもので、文武、一條、二條天皇勅願所であって天正十八年一五九〇年)佐賀藩主鍋島直茂社殿を再建、寛永十五年社頭破壊につき、勝茂、元茂、直澄、其他、多久、武雄、諫早等の領主協力して修復す。
元禄十一年直能萱葺を瓦葺となし、遷宮の式典を行う。
一の鳥居は、寛文五年直能、二の鳥居は、慶長十七年直茂、勝茂、元茂の寄進である。
天正年中から、小城郡七郷納所より毎年九月十五日に二注連に分ち、大行司、小行司を立て、隔年に片注連づづ勤めたが、寛永十五年島津陣の砌鍋島家から国家安全の誓願にて両注連元一同石木刈から行列を立て、参詣す。
維新後其の事は止んだ。
明治六年郷社に列し、明治四十年二月神饌幣帛料供進指定神社となる。
五月一日春季大祭(御田祭)十月十五日秋季大祭(現在は、十五日に近い日曜に行う場合もある。
)境内掲示由緒ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー郷社 天山神社 小城郡岩松村大字岩蔵祭神多紀理比賣神 狭依比賣神 多紀都比賣神当社は人皇四十二代文武天皇大宝二年四月一日、本部高隈の里(後岩蔵と改む)北山に不思儀の奇端現れ、風雨常ならずして物凄く吹通い、五色の雲東方より来たりて高隈山の東に立てる松の梢に清光赦奕として止まる。
其の松の辺りに樵家あり。
光輝其の家を照らせり。
人皆奇異の思いをなし恐れ畏みけるに、其の日夕方に及びこの家の童女僅かに七才なるがわずかに狂い出し告げて曰く「吾は東海より飛来れる神なり、吾長くこの地に止まりて、国家を守護し諸々の災難を払うべし云々」翌朝に至りて其の松の辺りに一の池生じ清水湧き出して湛えたり。
其の頃この里に九郎康弘という者あり。
右の託宣といい、清水の湧出といい、実に不思議なれば、里人を集め即清光を止めし松の辺りに小祠を建て、神霊を崇め奉る。
これより地名を松本村といい、松を影向の松と名付け、彼童女の子孫代々命婦と称し神事祭祀に預かり神巫を勤めたり。
九郎康弘は没後里人天山の末社に斎い奉る。
康弘夫婦その子四人都合六体の木造を刻して、九郎大明神と号し、本社の側に安置せり。
慶雲二年芸州厳島の社人等当地に来たり尋ね問いて曰く「近頃宮島より清光起こりて西の海に流飛すること久し、然れどもその至り止まる所を知らず、如何にも不思議なれば、其の光の止まる所を尋ね来しに、この山の麓に止まるを見たり。
当所には何か怪しき事はなかりしや」と。
里人云々の奇瑞託宣の由を語る。
社人等大いに驚き、依て宮嶋には帰らずして奉仕せり。
其の子孫次第に繁昌して、故郷の宮嶋を氏とし代々社職を勤め神主、専頭奉行、御供屋、供分等皆同じく宮嶋氏にして十八家となれり。
最初松樹の上に雲気止まり、神霊影向の時の遥か南方に当り、松の林のある所にも清光映しけるにより、小さき石祠を立て下の宮と号し、毎歳祭の節は神輿を是迄降ろし奉りしこともありしと伝う。
この所を今に南松とごうし小祠存せり。
同年冬十月国司より右の奇瑞等を帝都に奉聞して、天山大明神とご勅許あり、これより北山を天山岳と号す。
当社は天山頂上にある上宮に対し晴田村天山社と共に其の下宮たり。
代々の佐賀藩主をはじめ、多久武雄諫 早等の各村より時々祭祀料の供進その外社殿造営の寄進尠からさりきという。
明治四十年二月十五日神饌幣帛料供進指定氏子戸数 四百戸佐賀県神社誌要ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー佐賀県肥前国小城郡岩松村大字岩蔵郷社 天山神社祭神 多紀理比賣神 狭依比賣神 多紀都比賣神文武天皇大宝二年二月四月一日の創祀にかかり、慶雲二年十月、天山宮と勅号を賜いしかば、これよりこの山を天山嶽という。
清和天皇貞観二年二月八日、従五位下より従五位上に進み、光孝天皇仁和元年二月十日、正五位下に進みたまう旨、三代実録に見えたり。
桓武天皇延暦二十二年、勅願によりて、比叡山西谷の住僧聖命上人、この国に下りて、雲海山を開き、岩蔵寺を建て、当社を鎮守とす。
降って後鳥羽院の建久三年、勅命によりて再興あり、神領一千余町の田畑山林を寄進せらる。
正親町天皇天正はちねん、龍造寺隆信、祈願の為、岩蔵山天山六町八反を附せらる。
太宰管内志に「天山神社、肥陽古跡記下巻に、岩倉天山大明神本地弁財天は、大唐国弁財天の尊霊なり。
大宝二年四月一日、小城郡禅定山に来現し、里人娘七歳に成りけるに乗居させ玉い、託して曰く、我は大唐の弁財天也、十五番の王子乙護法善神の跡を追うて日本に飛来れりと宣う。
今の天山大明神是也。
天山は阿萬也萬と読むべし、名義いまだ詳ならず。
肥前人云、天山神社は小城郡小城領にあり、奥院は網山神社の奥院と一つなり。
網山は西の谷にあり、天山は東の谷にありてその間一里あり。
天山社は、座主を岩蔵寺と号して岩蔵村にあり、天台宗にして、聖一国師出産の地なりと云う。
この辺り五箇村の民、天山社に仕ふるがため公役をのがる。
この社は小城三萬石の宗社なり、祭は九月十五日にあり、この山のちょうじょうよりは、松浦郡の地眼下に見え、又た筑前志賀島などもみゆ。
天山社はこの山のさし出たる崎にあり、鳥居あり。
甚ひくし、山上には木生えず、蝿の多き所なり。
山上より二分許さがりて、弁財天社ありと云えり」と見え、少なしく前後矛盾あるが如し。
尚後考を竢つ。
明治六年十月郷社に列す。
社殿は、本殿、拝殿を備え、境内千八百九十三坪(官有地第一種)を有し、老松鬱乎として茂り、中に桜樹點綴し、四季の眺望極めて雅かに、神苑内の水草亦賞するに足る。
宝物には、太刀一口(無銘)、同一口(銘天国)あり。
境内神社大神宮 稲荷神社 三夜社(祭神 月夜見命)天満神社 鹿神社(祭神 鹿)例祭日 四月一日会計法適用指定年月日明治四十一年十二月十二日 県告示第五百七十五号神饌幣帛料供進指定年月日明治四十年二月十五日 県告示第四十号氏子戸数崇敬者員数 二千戸。