近くの勝浦 年毛神社にて受領しました。
入り口が滑ります。
古墳地帯の奴山地区の山裾にある神社服飾業界からの信仰も深く、拝殿内にはそれとわかる供物が複数あります御朱印は、近くの勝浦 年毛神社にて受領しました。
呉服仕立ての先駆けの縫姫が祀られています。
奴山・新原古墳群の一番大きな古墳と対になります。
民家の前スペースに車を停めるのも気が引け神社前に駐車し足早に参拝小さな神社ですが歴史を感じます(*^^*)
法蓮寺奥に坐す。
途中で道は狭くなるので、大型な車で行くと困るかも。
日本書紀に一ヶ所、胸形大神の記事。
それは応神紀に記す呉服の由来に付随する。
卅七年春二月戊午朔、阿知使主・都加使主を吳に遣はし、縫工女を求めしむ。
爰に阿知使主等、高麗國に渡り、吳へ達さむと欲す。
則ち高麗に至るや、更に道のりを知らず、道を知れる者を高麗に乞ふ。
高麗王、乃ち久禮波・久禮志二人を副へて導者と爲し、是に吳への通を得る由。
吳王是に於て、工女なる兄媛・弟媛・吳織・穴織四婦女を與ふ。
卌一年春二月甲午朔戊申、天皇明宮に崩る、時に年一百一十歲。
是の月、阿知使主等の吳より筑紫に至れる。
時に、胸形大神の工女等を乞ひたまふこと有りて、故、兄媛を以て胸形大神に奉る。
是れ則ち今に在す筑紫國御使君の祖也。
既に其の三婦女を率ゐて、以て津國に至るや武庫に及ぶも、天皇崩り、之に及ばず。
卽ち大鷦鷯尊に獻ず。
是の女人等の後、今や吳衣縫・蚊屋衣縫、是れ也。
近くの古墳にも、縫殿宮を掲げるものがあるので、この地に縫工女の一が留め置かれたのは事実らしい。
上古には流行の最先端を行くファッションセンターだった訳か。
今となっては信じられないことに。
地名を「奴山(ぬやま)」というのも、「縫(ぬひ)」から来ていそう。
同じ字を当てる「奴国」は「那の津」の国だったと思うのだが、違うのだろうか?漢字としての縫はホウと読むべきなので、どっちも当て字といわれればそれまでだけど。
ただし、これは縫製技術の話で、絹織物の由来ではない。
幡や日用品には安くて丈夫な麻を使った筈で、この時使った素材は何だったのだろう。
往年は蚕の繭を綿と呼び、後に木綿と区別するため真綿と呼び変えまでしたのに、綿の話がないということは。
絹でも木綿でもなかったのでは。
大鷦鷯尊とは仁徳帝の名で、応神帝の御代までは縫製ができなかったことになる。
そんな筈はないので、これは中興の祖を語った話となろう。
年代的に、孫権の呉はとっくに滅んでいた筈で、しかも案内人の名に「クレ」が入っていると来ては、実際に何処から来たのかよくわからないが。
「筑紫國御使君」が有名なように書いてあるけれど、そんな氏姓は見たことがない。
なお「武庫」は地名で「むこ」と読み、後に「六甲」と書いた。
新原・奴山古墳群に重大な関わりを持つ、「呉服のルーツ」と言われている神社。
竹薮の中にひっそりと佇んでいる。
民家の中を通り、山の中の参道を上がります小さな神社ですが百年前くらいの古くからある振りみくじが素晴らしいですひと気がないのでひっそりしています。
御祭神大歳神・応神天皇・神功皇后・兄媛・弟媛・呉媛・穴媛元々鐘崎や波津(旗津)に皇后が武内宿禰に二流の旗を織らせた伝承に見られるように湯川山(木綿間山)周辺には当時先端の織物技術があった。
が、より繊細な素材や技術を求め応神天皇が阿知使主・都加使主を呉に派遣し四年の歳月を掛け縫工女四名を招いた。
兄媛・弟媛・呉媛・穴媛である。
内兄媛だけは宗像大神の希望でこの地に留まった。
他三女は上方で最先端の呉服の原型となる技術を伝え各祖となる。
忌宮神社に秦の始皇帝十一世の子孫功満王による蚕種の渡来が伝わるが、次世代の応神天皇が生産技術から織物技術に至る最先端技術に関心を示したのも自然な流れであろう。
古代服飾技術の一大転換期に関する神社となろう。
名前 |
縫殿神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.2 |
ひっそりと佇む神社です。