惜しむらくは、ここへ至るまでの指示案内が少なかった...
車道から高橋紹運墓に行く途中に登山道があります。
ほぼロープに掴まりながらコースなので、それなりの服装で行かれた方が良いと思います。
私は山頂の方から下っていきました。
麓から上がる道もあるようです。
まず、危険を伴います。
見に行きたい方は、滑らない靴、長袖の服・ズボン、(できれば)ヘルメット、手袋は用意しましょう。
季節によっては虫除けも必要です。
また、迷ったり怪我して動けなくなったりすることも想定して複数人で行動しましょう。
道案内は特になく(看板があったようですが壊れています)、階段やロープを頼りに進みます。
車は岩屋城入口の看板付近(青看板のカーブ20あたりは路肩が広くなっています)に停めるとよいかと。
「高橋紹運公並びに勇士の墓」という看板横に下る道があるので、そちらへ進みます。
しばらく下ると「岩屋谷道」という看板があり、横道にそれます。
しばらくは谷に沿って下りますが、途中でいくつか分岐点があります。
順番として磨崖石塔群が先で萩尾大学墓が後になりますので、萩尾まで来てしまった方は引き返してください。
下るときに右側に谷底が見えますが、磨崖石塔群は左側に抜ける道の先です。
よく見れば看板の跡があるので、休憩ついでにちょくちょく周りをよく見渡し、階段やロープが続いていないか確認してください。
また、帰り道も把握しておいてください。
磨崖石塔群自体は、14世紀ごろに彫られたもののようです。
13世紀終わりに鎮西探題が置かれ、大宰府は政治の拠点から外れました。
1333年に後醍醐天皇が挙兵して鎌倉幕府を倒し、鎮西探題は滅ぼされました。
その後九州探題が置かれ、室町時代へと続きます。
またこの頃から倭寇が活動し、これを抑制しようとする動きも始まりました。
これらから、この時期、政治の中心ではなくなった太宰府・大野城でどのような理由で、このように隠れるようにして墓が刻まれたのでしょうか…?
惜しむらくは、ここへ至るまでの指示案内が少なかった点。
看板が倒れているのがエモいです。
名前 |
岩屋谷磨崖石塔群 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.4 |
雨の日、雨上がりなど悪天候では、かなり危険です。
道中ドキドキでしたが、この場所にいけで、楽しかった。
でも、この磨崖石塔がなにをさすのか、しりたいです。