とても綺麗に保たれてあります。
毎年正月最初のお参りとくじ引きが楽しみの神社です。
自然豊かで、野生の動物に遭遇することがあります。
この前たぬきを見ました。
山道(階段)があり、上まで登って下りるだけでも結構な運動になります。
結婚してからは毎年ここで初詣。
福みくじでお米が当たったり、結構景品が良いです。
日本武尊伝承地熊襲征伐後に立ち寄り奉斎の祭を盛大に行った。
近くの亀甲という地で天神地祇を祀り地神五代を鎮座した。
(長谷寺付近の山を亀甲山というらしいが定かではない)剣岳東側の八剣神社に対し西側を守護するかのように麓に鎮座する。
山頂まで30分程だったと思うが剣岳登山口にもなっている。
御祭神天照皇大神・忍穂耳命・邇々杵命・彦火々出見命・不合命・素盞嗚命・日本武命・宮簀姫命参拝時は差し込む西日も相まって神気溢れる感じであった。
九州では珍しい熱田神社。
やはり日本武尊の伝承が残る地の古社です。
村社 熱田神社 鞍手郡西川村大字新北字谷祭 神天照皇大神、忍穂耳命、邇々杵命、彦火々出見命、不合命素盞嗚命、日本武命、宮簀姫命由 緒傳に日本武命熊襲征伐の時龜甲にて天神地祇に祀祭し玉ふ其地に地神五代の大神を鎮座云々文治元年尾張國熱田大神を相殿に勸請す其後元弘元年故ありて社殿を司本嶽に遷す云々今の社地是なり明治五年十一月三日村社に被定尚社説に曰く、第十二代景行天皇二十七年冬、日本武尊熊襲征伐の時、新分の龜甲の名にめでさせ給ひ此所にて口嗽き(今池の口と云ふ社の西北五町の處にあり)司本峯の榊葉を取りて大麻とし天神地祇を祀祭し玉ふ此所に地神五代の大神を合祭して戰捷を祈らせ給ふ。
後ち熊襲を征服し歸途の際此の社に立寄らせ給ひて報賽の御祭盛に行はせ給ひし其靈跡なれば、里民崇敬し假殿を營み松榊樹を植ゑ祭りしに、靈驗あらたにして庶民参り集ひて日に月に盛んとなれりと言傳ふ其後多くの年月を經て後鳥羽天皇文治元年乙巳十一月に至り此所に新に神殿を構へ尾張國熱田大明神を勸請す。
後醍醐天皇元弘年辛未今の社地に移す(卽ち舊社地なり)文明の頃遠賀郡畑の城主香月七郎太夫興則再興す(當社の神官古金の目貫を得て畑の城に遺せりと云ひ傳るは興則に與へしなるべし、今目貫と云ふ地名あり)元龜二年辛未御社炎上す、此時社の植えより紫雲起り社の南五町餘にある松樹に靉く、人々奇異の思ひをなし松を神の飛松と稱す。
かくて三十年の間御假殿を造り板垣を結廻し神輿を移し置きたり。
今浮殿と云ふ貴船神社あり)慶長七年壬寅黒田家の宰臣小河内藏充之直に請て社殿を造立する事を得たり(卽ち現今の社地なり)寛永二十年癸未又再興す。
(棟札あり黒田萬吉守護小河内傳右ヱ門一信村民菰野某とあり)明治五年村民相謀りて神殿を改築せり。
當社古文書五通あり以て由緒を知るに足る、其の一、二を左に掲ぐ。
筑前國新分鄕本嶽鎮座由來の事我朝十二代景行天皇二十七年倭武皇子西征の時於龜甲之地祭天照大神向熊襲國爾來在天照大神御詞所謂新分大神宮是也後鳥羽院御宇文治元年依神告勸請尾張國熱田宮而與天照大神合祭奉稱熱田大明神而後元弘年再有神告而奉遷御祠本嶽所也應安八年正月金川殿 依仰問書之畢 書判御緣起一、撰者 鷹取周也一,補訂 加藤一純 福岡の勤王家黒田家臣也一,筆者 廣瀬盛英 叶翁と稱す一,題字 國宰本洲大老臣黒田一庸公一、間仁合紙 巻軸 長さ五丈五尺 縦一尺一寸舊 記夫司本嶽八剱大明神者往昔文治元年十一月十九日村民戮力構神廟龜甲之地勸請熱田大明神是則新分村之産神也 時大宮司大神佐麻呂四代嫡流 金川治丞政公元弘元年霜月奉遷司本嶽 宗像大宮司御免大宮司大神佐麻呂八代嫡流、采女正政行判右の舊記を以て政文宮司の免許を蒙れり一,御棟札 之勝公御再興棟札 奉再興八生大權現一宇右意越者天長地久御願圓滿藤原朝臣黒田萬吉家内安穏處也 寛永二十年(癸未)正月十五日 守護小河傳左エ門尉一信 大工梶原長左エ門尉小工三入殊者大神主觸川采女太輔福岡県神社誌 上巻。
名前 |
熱田神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.8 |
とても綺麗に保たれてあります。
気持ちよく参拝させて頂きました😊氏子さんや地域の方々のご苦労様とお陰様に感謝申し上げます🙏😊