その中に当社が鎮座する。
長い階段を登ります。
楓の木が「福津三十六景」に選ばれているようです。
福津市(旧宗像郡福間町)と宗像市(旧宗像郡宗像町)との境をなす許斐山(このみやま)、福間側の山麓に八並という集落があり、その中に当社が鎮座する。
社殿は特に変わった所のない、普通の村社に見える。
ところが、御祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)味鉏高彦根命(あじすきたかひこねのみこと )下照姫命(しもてるひめのみこと)と、出雲の神々を祀る。
その由緒は当社は宗像75社の一つであり、旧記に大己貴命、田心姫命、満津姫命を祀るとなし、此処に鎮座したる時に伊弉冊命、速玉男命、事解男命の三神、三羽の鷹となりて東方より飛び来たり此峰に止まり、三鷹変じて石像となり、頭身足翅皆備わりて真の如し。
大己貴命此峰を譲りて移り、三神自ら田心姫命、満津姫命を率いて山腹に降り給い、大己貴命許斐山に遷り給う。
とあり当社の事なるべし。
と、何だか異様な話。
「旧記」って何?と疑問だったのが、『鎮西彦山縁起』であるらしい。
…此なる三女神、日神の勅を奉じ宇佐嶋に降り、後に此山に移りき。
爰に大己貴神、更に田心姫命・瑞津姫命を娶り妃と為し、此山が北嶺に鎮まり座す。
因みて北山地主と称ふる也。
その山の中層に市杵嶋姫命の鎮まり座す也。
ある時、天忍穂耳尊が霊、一鷹と為り東より飛ひ来り、峯に止まる。
後に八角真霊石が上に移る。
此に於て大己貴命は北嶽を忍穂耳尊に献じ、自らは田心・瑞津二妃を率ゐて山腹に降り居す。
因みて茲に日子の号を樹てき。
後に三女は宗像宮に移り、大己貴神は許斐山に遷りたまふ。
英彦山の由来を語るもの。
なのに、英彦山の主である天忍穂耳尊より前に彦山に居て北山地主と呼ばれた神があって、それが宗像二女神を娶った大己貴神(=大國主)だという。
そこを天忍穂耳尊に譲り、宗像三女神は宗像大社に、大己貴神は許斐山に遷座したとするから、宗像大社と当社の縁起にもなっている。
古事記に曰く…故、此大國主神、胸形奧津宮に坐す神なる多紀理毘賣命を娶りて生みたまへる子。
阿遲(アジ)鉏高日子根神、次に妹なる高比賣命、亦の名は下光比賣命。
此の阿遲鉏高日子根神は、今に謂ふ迦毛大御神者也。
ということだから、当社の祭神は親子を祀る訳で、その点は整合している。
出雲に坐す阿須伎神社にも同じ神を祀るので、宗像と出雲、そして英彦山は、昔から交流があったことになる。
名前 |
的原神社 |
---|---|
ジャンル |
/ |
住所 |
|
評価 |
3.8 |
長い階段があります。