長野緑地公園に駐車し林道を進みました。
途中の道は土砂崩れや陥没だらけ、かなり危険な感じです。
ハイカーの人の作ったけもの道がなければ遭難しそうです。
長野緑地公園に駐車し林道を進みました。
どうも招かれざる客のようです。
城域の廻りを林道がぐるっと通っていますが、登城口が分かりづらいです。
看板も信用できなかったので、城域の西側の竪堀から登ると二の郭に出ました。
二の郭から本郭、三の郭を廻りましたが、三の郭が草木に埋もれかけてます。
評判通り畝状竪堀が郭斜面に鱗のように配されていました。
本郭の北側が明瞭で、二の郭も放射状に見られます。
数が多くなかなか壮観でした。
三の郭を降ると巨石が2つ並んだ所から林道に出られました。
素晴らしい遺構の残る歴史的に貴重な城跡ですが、登城路が全く整備されていないため荒れ放題です。
城跡も非常に分かり難いです。
ただ、本郭から見る連続竪堀は圧巻です。
素晴らしい遺構の残る歴史的に貴重な城跡ですが、登城路が全く整備されていないため荒れ放題です。
城跡も非常に分かり難いです。
ただ、本郭から見る連続竪堀は圧巻です。
平安時代末期には、素晴らしい城が鎮座したがいつしか忘れられこの歴史ブームに乗って観光客が国内外から訪れて平家の栄華をこの地で感じれる場所強者の夢のあと。
畝状竪堀群が特長の山城としては日本一ではないだろうか。
平清盛生誕 900年祭が岡山県や兵庫県❗️清盛ゆかりの土地で行われるが九州も何かしないと東九州自動車道からスマートインターが長野城直通の道が伸びれば長野城も再建されれば、観光客が殺到するねきっと平清盛の甥🌟おい🌟平重清(長野対馬守重清👈ながの・つしまのかみ・しげきよ)原田家や三笘みとま家(原田家家臣)を従え三笘家は、九州に残った者(のちに現在の香川県や北海道に渡った)香川県に渡った三笘家(三苫)は、藤原氏の二川家に従った北海道に渡った三笘家(三苫)は、アイヌ人と婚姻を結び現在の苫小牧市に広がった苫小牧の地名も三苫に由来すると源頼朝のチカラが及ばない蝦夷地に旅立った者に分裂し北海道の三笘家は、苫小牧(とまこまい)で静かに暮らした源氏(源頼朝の派遣した軍)の侵略を阻止するべく奮戦するも捕らえられて多くの長野家一族や家臣の原田家や三笘家は、現在の高知県神母木に島流しにあった🌟🌟🌟🌟重清の父は、平家で一番大人しい平家盛(結核で亡くなったとされる)兄の平清盛は、おお熱病で亡くなったと現在では、判明している兄に従い兄に反論しない清盛が最も信頼したが病死して家盛の死は、平家に大打撃を与えて平家の滅亡が早まったと言われる清盛の強引な政治改革は、一般の京都住民や自社仏閣を敵にまわし、彼等が源氏を応援した平家一族の内部からは、平家盛の死は、心労がたたり🌠兄の清盛の急な変革を後白河天皇から平家におしかりの書状が届き家盛がそれを読み受け止め兄の清盛にこんな不安に成る手紙を見せて信念を鈍らせては、いけないと書状が家盛の元でとまるよう画策した(兄の事を一番に、ストレスが自分だけにかかるようにした)後白河天皇は、清盛が書状を読んで迷うと考えていたが家盛のおかげて‼️清盛は、自由にやれた★この九州の地に長野重清(平家盛の長男)と長野正清(平家盛の次男)のちに五島正清と成り(のちに父親の重清の名を継ぎ)兄の養子に入って戸籍上親子に五島重清を称した(子孫に五嶋・伍島・後島・五嶌)桓武平氏の流れをくむこの人物は、正室に藤原氏の流れをくむ後藤家の娘を迎えて(呉東・呉藤・五藤)この系統も彼の子孫五島列島を中心に水軍を組織した(正清の妻の実家で近藤家の与力が)それを可能にした(平家盛の子が土着)兄の長野対馬守重清は、源氏に敗れ土佐に流された正清の子孫は、五島列島に子孫が多く五島姓を名乗った(源氏に勝てないのを理解して農民に成って)戦国時代に五島一族は、小規模な水軍を率いた北九州の人々の心は、長野対馬守重清を忘れないだろう🌠香川県丸亀市丸亀城🌠明治から富国強兵を行う明治政府により海軍基地とされ、のちに空軍が引き継いだ長野対馬守重清の子孫長野まさる准将が活躍した(少将の下・准将の上)👈にあたる階級長野は、大正時代から昭和初期に活躍した軍人であり高知県の神母木の大庄屋🌠「豊後国(大分県)の藤原氏」または「備後国(岡山県)の藤原氏」か「藤原氏の後裔」(ふじわらしのこうえい)の略であると言われている。
全国的に分布する名字で、大繁栄した特に北海道、東北地方日本海側(秋田県や山形県)や東海地方、九州地方東九州(大分県・宮崎県)に多く分布している。
桓武平氏との関わりが深く源平合戦の時は、平家に味方して壇之浦へ米等の物資を送って後方支援をしたが平家方だったため源頼朝に冷遇された。
しょっちゅう行っていますが、今年の梅雨の大雨で登山道が沢山崩れて登り難く成っています、気をつけて行きましょう。
高知県の神母木(いげのき)に居る長野一族が城主をしていた城源頼朝が派遣した源氏軍2000人が平清盛のおい長野重清600人を包囲した善戦したが落城して重清は、高知県の神母木に連行されていったその後*重清は、神母木で生涯を閉じる平家(伊勢平氏)の時代は、戻らず源氏の世と成った〒782-0003 高知県香美市土佐山田町宮ノ口に源氏が長野家を監視する館があった北九州の宝に成るよな再建したら。
名前 |
豊前長野城址 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.7 |
2023年2月。
長野緑地の周りにある歩道から看板を見かけたので、おそるおそる入ってみたが、ルートがわかりにくく、鉄塔がある所までしか行けず断念。
道すがら、石垣のような物はあったが、それが何だったのかはわからない。
本丸までの距離や時間が書いてある立て札などあれば、ありがたい。
道中でカエルの卵や、ホコリタケなどは、見かけられた。