宇佐神宮の元宮と言われる香春神社の元宮。
神秘的で自然に恵まれている為。
宇佐八幡宮に宝鏡を奉納したという由緒ある古社。
ヤマトタケル。
神社の周りを車で周りましたが、車で登れそうな道は鎖で入れませんでした。
下から石田を見上げただけで腰と膝が悲鳴を上げたので、今回は下の鳥居でお詣りを済ませました。
田川郡の式内社「辛國息長大姫大目命神社」「忍骨命神社」「豊比咩命神社」は香春神社に合祀されているところ、古宮八幡宮は豊比咩社の古社地とも言う。
採銅所という地にあって、地下資源を管理したらしい。
此処で採れた銅は奈良の大仏にもなった。
1kmほど離れた清祀殿では宇佐放生会に際し銅を採り鏡に造り、八幡宇佐宮の神鏡として和間浜の浮殿に奉納した。
豊比咩命:一之殿神功皇后:二之殿応神天皇:三之殿年不詳 豊比咩命三之岳に天降る 和銅二年 阿蘇隈神社を創祀養老四年 宇佐神宮御神体銅鏡奉納貞観元年 二神を勧請 八幡神社を称す慶長四年 阿蘇隈より現在地に遷座神功皇后と応神天皇は後から勧請したので、本来は豊比咩社であろう。
豊比咩命と神功皇后を区別した形になってはいるものの、神功皇后その人も、豊姫の一人ではないか。
応神紀に曰く。
(応神天皇に就いて、神功皇后の攝政)卅九年、是年也太歲己未。
魏志云「明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等、詣郡、求詣天子朝獻。
太守鄧夏、遣吏將送詣京都也。
」卌年。
魏志云「正始元年、遣建忠校尉梯携等、奉詔書印綬、詣倭國也。
」卌三年。
魏志云「正始四年、倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人上獻。
」魏志倭人伝を引いて述べているのは、倭女王卑弥呼の事績に当たる。
ゆえに編纂者は神功皇后をヒミコに擬していると見られる一方、六十六年。
是年、晉武帝泰初二年。
晉起居注云「武帝泰初二年十月、倭女王遣重譯貢獻。
」とも言う。
これだと「卑弥呼宗女壹與」の事績であり、「壹與」が写し間違いでトヨであったなら、神功皇后=トヨ姫の可能性が出てくる訳である。
宇佐神宮の元宮と言われる香春神社の元宮。
宇佐神宮の元宮と言われる神社はいくつもあり、御許山&大元神社は宇佐氏の信奉する地主神の元宮で、古宮八幡宮&香春神社は辛島氏が宇佐へ持ち込んだ神(八幡神)の元宮。
辛嶋 勝(すぐり)姓(かばね)系図に「辛嶋氏は素盞嗚尊を祖とし、その子五十猛命を奉戴して新羅より渡来し、筑紫國(筑紫神社)に五十猛命を祀り、香春岳に移って新羅の神を祀り、そののち宇佐郡に入った」と云う宇佐神宮への神鏡奉納行事は、江戸時代中期の1700年代には廃れたというが、古宮八幡神社の神幸祭に引き継がれている。
(毎年4月最終土曜日とその翌日)初日の午前中、唐櫃を持って長光家を経て神事を行い、秘密の「おまがり様」を唐櫃に納めて古宮に持ち帰る。
午後から杉神輿を担いで天矢大神宮まで行き神事を行い、御旅所に一泊する。
2 日目の午後、清祀殿と宮原で神事を行い、古宮八幡神社へ戻り、行事が終了する。
長光家は御神鏡鋳造の技術者の家系で、おまがり様は同家相伝の秘法、おまがり様お迎え神事は宮司と長光家当主しか知らない秘技と言う。
「おまがり様」と勾金(まがりかね)という地名は関係ありそうだ…。
709年、三つの山頂にそれぞれ祀られていたのを香春宮を建て合祀したとされているが、「三神三峰に鎮座し“香春三所大明神”と崇め奉る」と書かれていることからみて、この縁起の成立は、神仏混淆が進み、天台宗の三山配祀の影響を受けた後だったのではないか?という指摘もあり、香春宮の元宮は古宮八幡宮(阿曽隅社)だけだったとも言う。
香春神社は最澄と縁が深く三つの山頂に山王社が建てられていた。
神仏習合の八幡神と天台宗の山王神道、不可分な関係だったのだろう。
案内板より「 古宮八幡神社は平安時代にできた「延喜式」の「神名」に挙げられている豊比咩命神社の本社でありその最初の鎮座地は香春三ノ岳の懐,阿曽隈という所である。
創祀は元明天皇和銅二年(七〇九)今より実に壱千弐百八拾余年の古社である。
香春岳三山に祀られる神々は式内社豊前国座のうち三座でその一之岳に鎮まる香春神社の神は辛国息長大姫大目(からくにおきながおおひめおおめ)命で「豊前国風土記」に新羅の神が渡ってきて住みついたとある。
三ノ岳の古宮八幡神社は豊比咩命を祀り養老四年(七二〇)宇佐八幡社の託宣で三ノ岳の銅を掘って長光氏が鋳造した神鏡を宇佐宮放生会に奉納した縁で貞観元年(八五九)応神天皇,神功皇后を勧請して八幡神社の呼び名となる。
永禄四年七月(一五六一)大友義鎮日向肥後豊後の軍勢三万余騎を率い香春岳城主原田五郎義種と交じゆるとき社殿宝庫を焼失,その後慶長四年(一五九九)旧社地より現在地に移御する。
現在の社殿は安政四年(一八五七)の再建であり悉く楠材を以って建立されており殊に神殿の結構彫刻等は実に荘厳優雅を極め近郊に稀な建築物で神徳万古に朽ちない尊さを忍ぶことができる。
」
採銅所駅の傍に鎮座。
元々は南へ1kmほどの三の岳麓の阿曽隈に豊比咩命神社本社として鎮座していたそうだ。
戦国時代に大友軍との戦いにおいて社殿・宝庫を焼失し現在地に遷座。
この時代に失われた記録や書物も多そうだ。
御祭神豊比咩命・神功皇后・応神天皇再建は安政四年(1857)と比較的新しいが彫刻など見事な物となっている。
開放的な社殿が良いね。
宇佐八幡宮の御神体の銅鏡、あるいは香春岳三ノ岳で産出する銅を奉納していたことが縁となり、宇佐八幡宮の御祭神であった応神天皇、神功皇后の神霊を勧請したことに始まるとされている。
多くの神幸祭では御旅所までを下り、戻りを上りとする場合が多いのに対し、古宮八幡宮の神幸祭では逆になっています。
上りとは北を意味するという説と、川上を意味するという説があります。
古宮八幡神社は三ノ岳の麓にあり、以前は宮原(みやばる)に本殿がありました(阿曽隈神社)。
古宮に対し新宮が一ノ岳の香春神社を意味しています。
つまり古代は、宮原付近が中心地だったのです。
香春町の神幸祭は最も古い様式を保っており、石炭発掘の歴史とともに、神幸祭の中心地も田川市に移っていくのです。
風治八幡宮の社殿は、以前は香春岳を向いていたと言われています。
鳥居の色形が最高。
階段もちょうど良い角度で画になる。
名前 |
古宮八幡宮 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.3 |
よう、俺だ。
俺ぁ馬鹿だから歴史とか知らんからよ、写真だけ貼っとくな。
詳しいことは識者共が書いてるだろうからそっち見てくれよ。
俺には、写真撮る事くらいしか出来ねんだわ。
じゃあな。
めちゃくちゃいい所だったぜ。