歴史の世界は興味深い事が有って楽しいですね。
江戸の力持ち扇橋三次郎を辿る旅でやってきました。
門前仲町の富岡八幡宮の先宮との事、歴史の世界は興味深い事が有って楽しいですね。
境内の裏には富士塚が有って江戸時代も深川の隣で砂町も栄えて多様な史跡が沢山有ります。
富賀岡八幡宮、街中にあるものの物静かな雰囲気がある神社で東京都江東区の南砂町に位置し敷地内に保育園も併設されていおり、平日の昼間は子供たちや周囲の住人の憩いの場として愛されいいるよで、東京メトロ東西線の南砂町駅からは徒歩9分程の地に鎮座する鎮守社として拝められている。
一説には、同じ江東区内の富岡八幡宮の元宮との伝記が残る社の一つと言われている。
奈良時代の天平勝宝元年(749年)に右大臣の藤原豊成によって下総守として創建されて富岡八幡宮はこの地から寛永4年(1624年)に深川の地に遷座したと伝えるため、当社はその元宮との説もあるため元八幡とも呼ばれていると記されている。
当の富岡八幡宮側の縁起に富賀岡八幡宮が直接出てくるわけではないとされているが当社が元宮だという伝承があるのは江戸時代から広く紹介されているとされている。
南砂町周辺は人口が急増しているエリアであっても地元の神社として今も親しまれている。
下町の遺産です、素晴らしい。
深川の富岡八幡宮の元になった神社と言われています 大きな富士塚が素晴らしい。
3/24に参拝。
富岡八幡宮の元宮との事。
神社は町内に愛されている神社という風情。
神社自体は特に特徴がある訳では無いが、頑なに御朱印受付してません張り紙。
私は直筆には拘らないんだけどなー。
せめて書置きでも良いのでやってくれるとな。
こればかりはポリシーなのだから仕方無いか。
今後参拝される方もいらっしゃると思うので敢えて写真を掲載しました。
ここのおみくじ、結構当たります。
転居でこの神社が氏神様と知り今年の御札を受けてきました。
親しみやすい暖かな感じでした。
ご祭神は応神天皇(誉田別皇) 比売大神 宇迦之御魂大神。
深川富岡八幡宮の元宮として知られていて、創建は天平勝宝元年 794年と古い。
境内にある富士塚が有名。
南砂7丁目にある八幡宮通称元八幡といわれてます昔からある神社での旧砂村新田総鎮守まあこの辺り 南砂 東砂あたりでしょうか!境内地には浅間神社 富士塚があります(危険なので登れません)ネットでは富岡八幡宮と間違えているケースがありますインスタグラムは住所がこちらで写真が富岡八幡宮という写真がたまにあります御朱印はやってませんお正月は地元の方が多く参拝されてます早い時間がおすすめですよ深川の富岡八幡宮の元宮と云う説もあり当宮を元八幡宮(もとはちまん)と俗称されている。
下半身がどっしりとした狛犬さんがいます。
あんな、殺傷沙汰のあった所へは二度と行きません。
「元八幡」という停留場名が気になって、都バスから降りてみた。
由緒書によると、深川の富岡八幡宮の元宮なのだという。
いま見るところ、本堂はおそらく近年の再建であることは明らかだし(神社というのは、そういうものだが)、御由緒を読まないと、単なる村社くらいかと思ってしまいそうだが、天平勝宝年間(8世紀中盤)に創建された、おそらく都内でも屈指の古社である。
立派なお神輿、獅子頭などもガラス越しに展示されていて、この辺も富岡八幡宮っぽい。
本殿の裏には、江戸期に築かれた「富士塚」が良い状態で保存されており、当時の富士山信仰を偲ばせる。
南砂五差路の近くの神社。
とみおか、じゃなくて、とみがおか。
北西側に銭湯。
久の湯(銭湯マップ番号 23)日替わり薬湯が人気です。
体にやさしいお風呂です江東区南砂1-14-903-3644-1620営業時間 14:45~23:00定休日 木曜番台 コインランドリ 薬湯 富賀岡八幡宮は当社地がもと富岡八幡宮を最初に勧請した所で、寛永年間 1624年〜1643年の初めに今の深川へ移したと伝えられていることから、寛文5年1665年に元八幡・富賀岡八幡宮としたといわれています。
新編武蔵風土記稿では、当地近くに安置されていた神体僧形が深川の富岡八幡宮に移されたことから、上記の言い伝えが起こったのではないかと記載しています。
砂村永代新田の田守稲荷神社を明治43年合祀しました。
祭神 誉田別命境内社 浅間神社住所 江東区南砂7-14-18備考 旧砂村新田の鎮守、もと別当:永代寺新編武蔵風土記稿による富賀岡八幡宮の由緒八幡社村の鎮守とす。
土人云当社地は富岡八幡宮を始て勧請せし地にて、寛永の始今の深川の地に引移せしより、彼旧地なればとて、寛文5年八幡を勧請せしかは、元八幡と唱へ、今に永代寺持なり。
されど同寺にては寛文の勧請のことのみにて元地たりしことは傳へされど、今深川八幡の神体僧形は弘法大師の作にて、寛永の始まで郡中立石川端等の内に鎮座ありしを、同10年伊奈半十郎の臣興津角左衛門入道玄理寄附せしよし旧記あれば、土人の説の如く始此地に移し祀り、後に今の深川の社地草創して、再び移せし其旧地なるべし。
社地は松樹繁り、前面は渺々たつ海面にして景色殊に宜し。
末社。
天王、水神、弁天、道祖神、稲荷、秋葉。
庵、社守住す。
「江東区の民俗城東編」による富賀岡八幡宮の由緒富賀岡八幡宮(南砂7−14−18)『新編武蔵風土記稿』巻之二五によれば、この地は富岡八幡宮を初めて勧請した所であり、寛永年間(一六二四~四四)初めに今の深川の地に移った。
富岡八幡宮の旧地なので、寛文五年(一六六五)に八幡を勧請し、元八幡という。
「神社明細帳」によれば、寛文五年開発の際に除地四反七畝一〇歩拝領し、八幡神社の分霊を鎮祭し、本社の旧殿をこの地に移した。
なお、永代寺では元地であるとは伝えていないという。
この社のある砂村新田は砂村新四郎が万治二年(一六五九)に開拓した地であり、そのため彼の名字を以て村名としたという。
『東京都神社名鑑』によれば、富岡八幡宮は寛永四年(一六二七)菅原道真後裔といわれる長盛法印が霊夢に感じて八幡宮を創始することになり、永代島周辺の砂州を埋め立て社地と氏子の居住地を開き、総じて六万坪という土地を徳川幕府より拝領したという。
『御府内備考続編』巻之六によれば、「葛西志に砂村元八幡宮を当社の旧地なるよし記せども社伝にはなきことなり」と元八幡は富岡八幡宮の旧地という説を否定している。
『江東区史』では、富岡八幡宮には二体の八幡神像があり、第一の神像は長盛法印が京都から持ってきたものであり、第二は伊奈氏の家臣から奉納されたもので、富岡八幡宮に奉納される前に砂村の元八幡の地に置かれ、それから富岡八幡に移ったと思われ、富岡八幡宮は砂村から移ったという伝説が生まれたのではないかと推測している。
また、富岡八幡宮と区別するために富賀岡八幡宮と賀の字を中に入れているという。
明治四三年に砂村永代新田の田守稲荷神社を合祀した。
明治四三年・大正六年の水害、昭和二〇年の大空襲により大きな被害を受け、戦後は仮官を造営、昭和三六年に本殿などが再建された。
ここは知人に近辺少し休める場所として教えました。
実家近くに。
近くに飲食店や自販機。
南砂7丁目の〔富賀岡八幡宮〕に芭蕉句碑がある。
日にかかる雲やしばしの渡り鳥 文化2年(1805)建立。
碑には「めにかかる」と刻まれているが、「日にかかる」が正しい。
名前 |
富賀岡八幡宮 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
03-3647-9472 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.8 |
水かけ祭で有名な深川「富岡八幡」の元宮ということです。