航空自衛隊築城基地の北4kmほどの県道25号線沿い...
海軍築城航空基地稲童掩体 / / .
時間があって寄りました。
何か心に響くものがありましたが、終戦記念日に行ったのでそう思えたのかもしてません!案外戦時中の飛行機は小さいんだなぁって個人的に思えました。
当時の掩体壕(えんたいごう)を間近に見ることが出来ます。
戦時中に航空機を隠すために作られた施設です。
メンテナンスが行き届いており、細かいところまで観察できます。
銃弾の痕が残っていると、戦争の恐ろしさを垣間見ることができて良いですね。
何も無い所にポツリ。
でも感動。
駐車場も在るし、気軽に立ち寄れて良い勉強に成る。
近所に築城基地の見える公園もアリ。
大型の掩体壕自体も珍しく、保存状態も良かったと思います。
関係者の方々に感謝いたします。
綺麗に回りは整備されていて、先の大戦で出来た物と思いません❗
凄いの一言です。
歴史や当時の時代背景を想像出来る場所。
稲童1号掩体壕は、航空自衛隊築城基地の北4kmほどの県道25号線沿いにあります。
築城基地は昭和14年(1939年)12月から建設を開始し、昭和18年(1943年)4月に完成しました。
戦況の悪化から本土が空襲されるおそれが生じたため、翌年8月頃から掩体壕の建設が始まりました。
稲童1号掩体壕もその1つです。
稲童1号掩体壕は鉄筋コンクリート造の有蓋掩体壕で、入口は幅26.8m・高さ5.5m、奥行きは23.5mと大型です。
大型の掩体壕は陸上爆撃機「銀河」、「一式陸上攻撃機」などの中型軍用機を格納するために建設されました。
掩体壕自体は土を盛り、草木を植えるなどして自然の小山のようにカムフラージュしていたようですが、掩体壕と滑走路との間には幅40mの誘導路が設けられたため、稲童地区は激しい空襲の目標となってしまいました。
空襲は昭和20年(1945年)3月に始まり、終戦直前の8月7日には数十名の死者を出し、多数の軍の施設や民家が焼失しました。
現在も、稲童1号掩体壕の天井前面をはじめ、稲童地区の安浦神社の鳥居や灯篭、周辺のレンガ塀などに機銃掃射の弾痕が残っています。
掩体壕とは、戦時中に敵の空襲から軍用機を守る目的で造られた格納庫です。
稲童地区は、旧築城海軍航空隊基地に隣接していたため、起伏のある地形を利用して掩体壕、地下通信司令部壕、その他の軍事施設が建設されました。
建設された掩体壕には大型のものと小型のもの、また天井のある有蓋掩体壕と無い無蓋掩体壕に分けられます。
天井の無い無蓋掩体壕は、飛行機の周りを囲むコ字形の土手です。
上からの直撃弾から軍用機を守ることはできませんが、横からの爆風や破片を防ぐことができ、有蓋掩体壕より簡単に建設できます。
掩体壕とは敵の攻撃から航空機を守ることを目的とした人工的な壕です。
コンクリートで造った丘みたいなものでしょうか。
当時は草木でカムフラージュしたみたいです。
掩体壕は九州を中心として広い範囲であるようです。
行橋市の掩体壕は大型で銀河や月光、一式陸攻を格納したらしいです。
とても堂々として大きなものです。
私のバイクを前に停めてみました。
大きさを比べてみてください。
ここは稲童工業団地の手前でとてもすぐ見つかります。
実は「行橋市 掩体壕」で調べると他に候補が見つかります。
そしてマップを便りに進むともう一つ同規模のものが見つかりました。
しかしこちらは建設業の会社の敷地内にあり「関係者以外立ち入り禁止」の看板が。
周りを見ても人の気もしないし番犬に見つかってしまい退散しました。
でも神奈川から来たので諦めきれず会社の方の許可を求める為に時間を空けて立ち寄ること三度目にしてやっとお会い出来て掩体壕撮影の許可を求めると快く許可をいただけました。
ありがとうございました。
時は流れ平和な時代になりあの時は戦闘機を格納していた掩体壕も今は建設資材の置き場になっています。
そして次の掩体壕を求めてさ迷うとそれらしい所に着きますがやはり「関係者以外立ち入り禁止」の看板が。
地元の人が来たのでここは何か尋ねてみるとどうやら農場か畜産場みたいなことを言ってました。
ここは工業団地に入った道の脇というんでしょうか。
さすがに勝手に入る訳にもいかず諦めて私は大分県の宇佐平和会館へ向かいました。
凄いの一言です。
歴史や背景を想像出来る場所。
太平洋戦争時代、戦闘機を隠していた豪です。
是非、戦争の歴史を感じて見て下さい。
戦争の遺構が良好な保存状態で維持されていることは素晴らしいと思います。
駐車場も整備されていて良いのですが、他に何もないのでわざわざ訪れる魅力には欠けていると言わざるを得ません(u003e_u003c)。
きれいに残っています。
ぜひお立ち寄りを。
戦争遺産です。
一種の格納庫 敵からの攻撃から航空機(双発機体 又 戦闘機体)を守る為の建物 近場には、まだ 有るらしいが 見たい気持ちと見てはいけない気持ちが有ります。
また 近場の墓地にはアメリカ軍の戦闘機により機銃掃射で攻撃され…キズ付いた墓石が…有ります。
通る度に思いますこの地で多くの方々…心が痛みます。
平和を考える時、今までの戦争での惨劇を忘れてはいけません。
機会が有れば、訪れて見て下さい。
大東亜戦争時に米軍の夜間爆撃機に対抗するために開発された月光(夜間戦闘機)などが格納されていた。
愛する家族や故郷を守る為に飛び立った先人達が居た事を忘れてはならないな。
感謝の気持ちで静かに手を合わせた。
思った以上に大きかったです。
ここに格納されていた飛行機は大きかったんだなと。
機銃の弾痕の跡も生々しいです。
駐車場は手前の方にあり、隣の敷地は何処かの会社の敷地なので間違えないように。
あと、近くにも見学できる箇所が有りますが少しわかりにくいかも?
掩体壕とは、戦時中に敵の空襲から軍用機を守る目的で造られた格納庫です。
稲童地区は、旧築城海軍航空隊基地に隣接していたため、起伏のある地形を利用して掩体壕、地下通信司令部壕、その他の軍事施設が建設されました。
建設された掩体壕には大型のものと小型のもの、また天井のある有蓋掩体壕と無い無蓋掩体壕に分けられます。
天井の無い無蓋掩体壕は、飛行機の周りを囲むコ字形の土手です。
上からの直撃弾から軍用機を守ることはできませんが、横からの爆風や破片を防ぐことができ、有蓋掩体壕より簡単に建設できます。
築城基地は昭和14(1939)年12月から建設を開始し、昭和18(1943)年4月に完成しました。
戦況の悪化から本土が空襲されるおそれが生じたため、翌年8月頃から掩体壕の建設が始まりました。
稲童1号掩体壕もその1つです。
稲童1号掩体壕は鉄筋コンクリート造の有蓋掩体壕で、入口は幅26.8m・高さ5.5m、奥行きは23.5mと大型です。
大型の掩体壕は陸上爆撃機「銀河」、「一式陸上攻撃機」などの中型軍用機を格納するために建設されました。
掩体壕自体は土を盛り、草木を植えるなどして自然の小山のようにカムフラージュしていたようですが、掩体壕と滑走路との間には幅40mの誘導路が設けられたため、稲童地区は激しい空襲の目標となってしまいました。
空襲は昭和二十(1945)年3月に始まり、終戦直前の8月7日には数十名の死者を出し、多数の軍の施設や民家が焼失しました。
現在も、稲童1号掩体壕の天井前面をはじめ、稲童地区の安浦神社の鳥居や灯篭、周辺のレンガ塀などに機銃掃射の弾痕が残っています。
名前 |
海軍築城航空基地稲童掩体 |
---|---|
ジャンル |
|
電話番号 |
0930-25-1111 |
住所 |
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関連サイト |
https://www.city.yukuhashi.fukuoka.jp/site/bunkazai/1307.html |
評価 |
4.1 |
思っていたより、大きくて迫力感じました。