重要文化財の社殿は素晴らしい、見晴らしも良いですよ...
石城神社御鎮座の由来一、祭神 大山祇神(おおやまつみのかみ) 雷神(いかづちのかみ) 高寵神(たかおかみのかみ)二、鎮座 敏達天皇3年(574)吉備屯倉(きびのみやけ)の津史(つのふひと)が当地に来て、「石城官」の勅額を賜ったのが本神社の始まりである。
今年は数えて一千四百三十九年目にあたります。
正史の記述は、「三代実録」に、清和天皇貞観九年八月十六日「壬午」周防国正五位上、石城神、従四位下授けるとあり、旧社格は明治六年郷社に、大正二年県社に列せられた。
明治四年までは近郷八ヶ町村(現田布施町、光市大和地区、室積の一部)が氏子として祭典をなし、その御神徳は多くの人々の尊崇を受けている。
三、文化財 本殿重要文化財本殿は、文明元年(一四六九)七月に大内政弘が再建したもので、のち永正十一年(一五一四)九月大内義興が明暦二年(一六五六)閏四月毛利綱広が寛政十年(一七八九)七月毛利斉房が夫々修復した。
安政四年(一八五七)八月には毛利敬親が、拝殿と楼門を再建したものである。
本殿は、明治四十年(一九〇七)五月二十七日に、特別保護建造物に指定され、昭和四年(一九二九)七月一日国宝に、昭和二十五年(一九五〇)八月二十九日重要文化財の指定をうけた。
神籠石(こうごいし)石城山の八合目を列石が延々と取り巻き、谷には水抜きの水門を設けた大規模な遺構がある。
これを神籠石と言い、九州北部から瀬戸内海にかけて見られ、現在十四ヶ所の存在が確認されており、学界では早くから注目されていた。
この遺構が古代神聖な地域を限るために設けた神域説と、列石の上に土塁または木柵を設けた山城説が並存していたが、昭和三十八、九年の文化庁、山口県教育委員会、旧大和町の共同による大規模な発掘調査の結果、列石が山城の土塁の基底部であったこと、山城としての門址のあることが確認され、山城説が有力となった。
第二奇兵隊本陣跡地幕末慶応元年社房であった神護寺に「第二奇兵隊」の本陣が置かれた。
翌年に勃発した四境戦争の大島口の戦いにはここから出陣おおいに活躍した。
現在跡地は神社の境内の一部となり、元内閣総理大臣岸信介氏作詩の「第二奇兵隊士碑」がある。
平成二十三年一月ーーーーーーーーーーーーーーーー国指定文化財建造物 石城神社本殿(いわきじんじゃほんでん)明治四十年五月二七日指定所在地 光市大字塩田石城神社は延喜式内社で、由緒ある神社である。
祭神は大山祇の神(おおやまつみのかみ)・雷神(いかづちのかみ)・高寵神(たかおかみのかみ)で、武事・鉱山・農林の神をお祀りしている。
旧号を三社権現(さんしゃごんげん)といっていたが、明治元年石城神社と改称した。
石城神社の創建は明らかでないが、社伝によると、敏達天皇三年(五七四)の鎮座と言われ、天皇の勅願と伝えられる「石城宮(いわきぐう)も保存されている。
本殿は、文明元年(一四六九)大内政弘が再建したものと伝えられている。
桁行(けたゆき)五・五四メートル、梁間(はりま)二・八五メートル、正面入母屋造り、背面切妻造り妻入り、こけら葺(ぶき)、四囲に縁をめぐらせた春日(かすが)造りである。
柱面のとり方、勾欄(こうらん)のそり方、斗栱(とくみ)、蟇股(かえるまた)等に室町時代の特色を残している。
大正十年(一九〇七)五月二十七日に特別保護建造物に指定され、昭和四年(一九二九)七月一日国宝に、同二十五年(一九五〇)八月二十九日に重要文化財の指定を受けた。
平成十九年九月光市教育委員会社頭掲示板。
重要文化財の社殿は素晴らしい、見晴らしも良いですよ。
石城神社いわきじんじゃ山口県光市大字大字塩田石城2233番地祭神大山祇神雷神高龗神山の神が祭神となっています石城山(標高362メートル)の山頂部に鎮座但し車で山頂まで行けますし駐車場もあります石城山神籠石が有名で山城があったと思われます663年の白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗したことを契機に当然本土に攻め込まれる事を予想して7世紀後半に築かれた推測される城塞です。
8年程前、石城神社及び萩藩第二奇兵隊の痕跡を探索するため、県道160号(石城山公園線)を四駆で登っていたのですが、数日前の台風の被災により何ヵ所か路肩が多少削られたり、小さな落石があったり、樹の小枝が散乱していたりして、対向車が来れば離合できそうにもない状況でしたが、幸い対向車もなく、何とか平場にたどり着きました。
しかし、何処かで道を間違えたのか、着いた所はキャンプ場でした。
周りを歩いてみたのですが、台風が通り過ぎた直後のせいか、鬱蒼とした林に視界を遮られ、トイレ以外には何も確認できませんでした。
大雨や嵐の後に来るような所ではないなと納得し、山を降りました。
今回、何気なくGoogleMapで石城山をチェックしておりましら、お二方のクチコミと投稿写真を見つけることができまして、大変嬉しく思っております。
神社仏閣に多少興味を持っており、幕末史につきましては、いささか勉強もしておりますので、現地を訪れてはおりませんがクチコミだけさせて頂きます。
石城神社は飛鳥時代(574年)の創建と云われています。
その後、大内氏により本殿が造営され、修復も大内氏・毛利氏によるそうです。
又、幕末には毛利敬親により拝殿と随身門が造営されたそうです。
祭神は大山祇神(おおやまつみのかみ)、雷神(いかづちのかみ)、高龗神(たかおかのかみ)が祭神とされています。
延喜式神名帳(927年完成)によると周防国十座の式内社の一つになっています。
大内氏や毛利氏に手厚く庇護された格式の高い神社であることは、「島根のボイちゃん」の投稿写真から十分に伺えます。
長くなりますが、次に第二奇兵隊です。
長門方面の吉田松陰先生とも親交のあった海防僧「月性」の門下が周防方面には、多く居ました。
尊王攘夷を大義とする隊(武装組織)が次々と結成されていきます。
禁門の変前後には、防長二州で奇兵隊のような諸隊が200内外存在していたようです。
四カ国連合艦隊との馬関戦争以後、藩政の実権を俗論党(幕府恭順派)が掌握したので、その粛清を逃れて奇兵隊士などが周南地方に詰め掛けてきており、郷土防衛のため予め同地方に帰参していた元奇兵隊士と合流し、その他の諸隊を糾合し周防部の一大武装勢力となりました。
この動きは奇しくも長門部で俗論党討伐に挙兵した高杉晋作の動きに呼応するものでした。
この一大武装勢力は石城山に本営を置き、兵員は400人を越えたと云われています。
松陰先生とも親交があった萩藩陪臣の白井小助を隊長とし南奇兵隊と称しました。
南奇兵隊は慶応二年(1866年)四月には、藩命により隊名を改め、第二奇兵隊を称するようになります。
実際に現地を訪れ、石城神社を参拝し、第二奇兵隊練兵場跡や火薬庫跡を確認し、最後に古代山城の神籠石を観察してみたいと思います!
仕事で何度かふもとの道を通っていて石城山の看板が気になり山頂へ車で登ると開けた場所に出ました❗周りを見ると茅葺き屋根の門が見えたので歩いて行くととても立派な建物でその奥に参道が続いていました😀百数十メートル歩くと林の中に立派な石城神社が😱説明看板によると⁉️ここは幕末第2奇兵隊の本陣跡で訓練場所や砦が有った歴史的重要な場所でした😱👍そう言えば近くに伊藤博文閣下の生誕場所が🤔ここ田布施、光市周辺ですね🎵詳しくは皆さんも行かれて体験、見て感じる為❗おとずれてはどうですか😀👍因みに右側奥に大きく立派な日本神社が有りその横に日本国歌の君が代の中に書かれて有る、巨大な(さざれ石)が飾られていますよ‼️
この境内地に奇兵隊の本陣だった場所があります。
名前 |
石城神社 |
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ジャンル |
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電話番号 |
083-933-4666 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.0 |
現在 4年の改修工事が行われています。
室町時代建立と言われています。
主に屋根 コケラ葺と下地材の取り替えと聞きました。
見学させて頂き 昔の匠達のセンスの良さと技に感心しました。