弓大将のおわす、筑紫の重要一大拠点。
駐車場はありませんが、通沿いに1台くらいならスペースがありました無人の神社さんですが綺麗にお手入れされています玉満天満宮さんの兼務のようで、御朱印は予約が必要です。
神功皇后ゆかりの神社⛩️神功皇后を支援していた水沼君の領地だった場所で、境内はそれほど大きくはないが、掃き清められて気持ち良くお詣りすることが出来ました(*^^*)大きな藤棚があるので、花が咲く時期に来ればもっと良いかも。
御朱印は、電話にて予約する感じになってるみたいです。
素敵な雰囲気の神社です。
菊の紋がつけてあります。
水沼君が治めたという三潴とは、言うほど低湿地であったのかと、改めて調べる気になった。
その中心となったのが、西鉄三潴駅にほど近い高三潴のこの地であるらしく。
行ってみると「三潴の駅」向かい、三潴小学校の隣にあった。
景行紀に曰く。
次なる妃の襲武媛、國乳別皇子と國背別皇子(一に云ふ宮道別皇子)、豐戸別皇子を生みたまふ。
其の兄なる國乳別皇子、是は水沼別の始祖なり。
弟なる豐戸別皇子、是は火國別の始祖なり。
弓頭神社は、この水沼別(みぬまわけ)の始祖たる國乳別皇子(くにちわけのみこ)を祀る。
日本武尊と同世代、八幡神より古く由緒正しい神なのに、あまり知られていない。
さほど広くはない境内なのに、開けた感じ。
古くから人々が集まり栄えた土地ゆえか。
「弓頭」の意味は、神功皇后征韓に際し弓大将を務めたと説明されているけれど。
旦那の仲哀天皇が日本武尊の子だから、神功皇后は皇子より一世代後。
別人の豊姫に仕えたのだろうか。
それとも後継者が皇后に仕えたのだろうか。
近くにある烏帽子塚は、國乳別皇子を祀る前方後円墳であったという。
隣町の大善寺に鎮座する御塚古墳の2倍くらいある大古墳ゆえか、早くに宅地と化しており、後円部のごく一部が残る。
御塚古墳と比べたら、当社もその一部か入口程度だったかも知れない。
記紀に記さない宮処が此処にあったと見るべきであろう。
筑後川河口、柳川の隣にあって、福岡県内には珍しい平野が広がる。
今では下流の柳川が水郷と知られるくらいだから、上代には此方が水郷であり米どころだったのだろう。
それは納得するしかない。
ただ何だろうか、何か見落としている気がしてならない、何だか不思議な場所である。
主祭神は国乳別皇子です。
国乳別皇子は第12代景光天皇の皇子で、水沼別の始祖にあたります。
この地の高三潴は水沼の君累代の政治の地であり、古代行政・文化の中心として繁栄した処でした。
国乳別皇産は弓にたけており、神功皇后の三韓国遠征の折、弓大将として参加した伝説があります。
そこから弓頭大明神と称され、奉られたと云われています。
地元では弓頭大明神(国乳別皇子)のことをゆがしらさんと呼んでしたしまれています。
神社は塗り替えられ鮮やかな姿になっています。
同じ境内に天満宮の神社もあります。
御祭神国乳別皇子景行天皇の子で母は襲武媛となるが皇子はこの地を任され、水沼の君の姫を娶って水沼別の始祖となった。
神功皇后のいわゆる三韓征伐の際には弓大将を務めた事から後に弓頭大明神とも呼ばれた。
古代歴史ロマンの詰まった地・社となるのだろう。
主祭神: 国乳別(くにちわけ)皇子 (景行天皇の皇子、水沼別の始祖)この高三瀦は水沼の君累代の政治の地であり、古代の行政と文化の中心として繁栄した所である。
古伝説には「神功皇后韓攻撃の時、弓大将だったために、弓頭大明神と称えられた」と言い伝えたとの説もある。
国乳別皇子のお墓は烏帽子塚(弓頭神社御廟塚ともいう)と称し、本社の西北3町(約300m)ばかりの所にある。
弓大将のおわす、筑紫の重要一大拠点。
本殿の干支彫刻の申酉戌は正面に配置されてあるのでしょうか?それとも鬼退治にかり出されてる⁇入り口の一体化狛犬、本殿ユルキャラ的、獏?好きです🤗御朱印は玉満天満宮でお受けできるようです。
名前 |
弓頭神社 |
---|---|
ジャンル |
/ |
住所 |
|
評価 |
3.9 |
景行天皇関連史跡。
熊襲征伐に九州に来た景行天皇の妃に襲武媛(ソノタケヒメ)がおり、3人の子がいた。
その三皇子の一人、国乳別皇子はこの三潴の地を治めていた水沼氏の始祖とされ、この弓頭神社の祭神となっている。
・国乳別皇子(クニチワケノミコ)…水沼別(ミズマノワケ)の始祖・国背別皇子(クニソワケノミコ)…別伝では宮道別皇子(ミヤジワケノミコ)・豊戸別皇子(トヨトワケノミコ)…火国別(ヒノクニノワケ)の始祖また神功皇后が新羅を攻めたとされる際に弓頭(弓大将)として従いこの神社が建てられたとされる。
因みに神功皇后は景行天皇の孫(仲哀天皇)の妃。