若い藩士たちは過激に向かう。
周布政之助の碑(周布公園) / / .
非常にわかりにくい場所にあり、一般の観光客じゃ見つけられないwww自転車を借りて、ぜひ来て欲しい場所です。
吉富家の墓や周布政之助の墓、これがなかなか見つからない!一般のお墓もありますから、お静かにね。
南側には麻田公輔の墓として、周布政之助はこの地に眠っている。
同じく故郷の長門市三隅にも墓がある。
幕末の維新に揺れる動乱季に長州藩を支えた重臣です。
詳しい説明は🙅🙇 自分の目・身体で確認。
❔ん。
6年前、ホテルニュータナカであった会合の休憩時間(約60分)に訪れました。
古稀庵西側の道路(山大通り)を横断し、南方向へ暫く歩くと案内標識があります。
「周布町」という住宅街の水路沿いの小路を西方向へ凡そ7~8分歩きました。
自然石を使用した『麻田公輔墓』(周防灘さんの投稿写真を参照して下さい。
)に改めて幕末史の重さを感じました。
「麻田公輔」は「周布政之助」の改名?(変名)です。
それはともかく、天保の改革以来、「村田清風」に代表される改革派と「坪井九右衛門」に代表される守旧派が藩政を交互に担っています。
この政権交代が結果論ではありますが、藩財政を盤石とし、藩論統一のための様々な議論が深化したと思えてなりません。
元治元年(1864年)、後進として面倒を見てきた高杉晋作とともに来島又兵衛ら藩士の暴発を抑えようとしましたが、抑えきれずに「禁門の変」が勃発し、長州軍は敗退してしまいます。
その一月後、四カ国連合艦隊との馬関戦争で萩藩は大打撃を被ります。
そのような状況の中、幕府による第一次長州征討に際しても、事態の収束に向けて動きますが、時既に遅く、坪井派の後継者椋梨藤太ら俗論党に藩政を掌握されてしまいます。
同年9月、一身に責任を負い矢原の庄屋邸にて切腹しました。
ローカルガイドの皆さんの投稿写真でお分かり頂けるように、毛利元徳(もとのり)公の書による「周布政之助君碑」は威風堂々たるもので、盟友「松陰先生」も、さぞかし満足していると思います。
桜がとても綺麗でした。
車が入れませんので残念です‼️
幕末の長州藩は倒幕譲位と幕府との協調に二分され、若い藩士たちは過激に向かう。
そんな藩士たちの兄貴分として精神的な支柱となったのが周布政之助である。
湯田温泉の近くには周布と言う地名もあるが、その近くにこの場所がある。
今では公園のような広場に石碑が建っているだけではあるが、石碑に刻まれた政之助の言葉を見るにつけ、幕末の激動と藩を思う気持ちが伝わってくる。
この場所に行くには結構狭い道を行くので徒歩がオススメです。
小さな公園に碑はあります。
お墓は、となりの墓地の中です。
幕末の長州藩は倒幕譲位と幕府との協調に二分され、若い藩士たちは過激に向かう。
そんな藩士たちの兄貴分として精神的な支柱となったのが周布政之助である。
湯田温泉の近くには周布と言う地名もあるが、その近くにこの場所がある。
今では公園のような広場に石碑が建っているだけではあるが、石碑に刻まれた政之助の言葉を見るにつけ、幕末の激動と藩を思う気持ちが伝わってくる。
この場所に行くには結構狭い道を行くので徒歩がオススメです。
名前 |
周布政之助の碑(周布公園) |
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ジャンル |
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電話番号 |
083-934-2810 |
住所 |
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評価 |
3.5 |
1989年の日本テレビ年末時代劇「奇兵隊」で故津川雅彦さんが演じた周布政之助を観て以来妙に惹かれる人物だと気になっていまして本日やっとお墓参りに来ることが出来ましたちなみにお墓は「麻田公輔」の名で隣接する墓地内にあります当然というべきかやはりというべきか周布政之助はかなり地元の人たちにも慕われてたようでこの辺一帯の地名も「周布町」になっていました小職からしたら「さもありなん」といったところでありますそれにしてもなんで麻田公輔の墓碑銘なんやろこの辺りは「周布町」やのにその地名由来の人物の墓碑銘が生前の変名って…謎が深まるよなぁ。