名前 |
雀ヶ崎城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.0 |
雀ヶ崎城(砦)は、千葉県の中ほどを蛇行する様に流れる養老川に囲まれた、やや小高い山に築かれている。
南北東の三方を天然の水堀とし、戦略の拠点としての立地条件も良好である。
この小山の西端には、薬師如来を安置する坂中薬師堂が在り、御堂に伝わる縁起があるという。
その坂中薬師堂縁起に云う、「淡海公(藤原鎌足の次男不比等)の後胤藤原定春、安房上総の大将にて当国御園生に城郭を構へ豊かに暮し給ふ時、御子二人持ち給ふ。
嫡男は大館主馬助、次は雀の前と名づけて息女なり。
云々(中略)、定春より十七代の末孫大館判官定重、この者悪逆無道にて常に悪心を構へ、我意に任せ民を悩ますこと限りなし。
因りて茲に帝王の逆鱗に御座して、源頼光に仰せ付け終に退治せらる。
其頃は治安元年(一〇二一)辛酉、御園生城郭を責め落とされ畢。
云々」雀ヶ崎城の東側にはかつて、【御園生館】と呼ばれた平安時代の館が存在していたという。
雀ヶ崎城と御園生館は元々、堀を挟んで地続きであったらしいのだが、現在は道路敷設の為に切崩され、低い丘状となっており、その面影は見られない。
当時の御園生館の主は大館氏であったと伝わる。
館主大館判官定重は、判官(検非違使か)として、地域の善政を司る立場でありながら、悪逆無道の限りを尽くし、地域に不安をもたらしていた。
これが朝廷の怒りを買い、源頼光を派遣して定重を討ったという。
源頼光は、様々な鬼・妖怪を退治した逸話が有名だが、此処においても、鬼と化した様な定重を成敗したという事になるのだろうか。
しかし、源頼光公、彼の没年は治安元年(享年68~74と、当時としてはかなりのご老体)である事から、この伝説は、所詮伝説に過ぎないのだろう。
一方、雀ヶ崎の城郭は、かなり巧妙に築かれているように思える。
郭構造は、区画を巧みに整理し、その境界は深めの堀(堀切)を廻らしている。
山の頂の主郭と思しき部分は良好に整地された平坦部で、小規模な館を構えるには十分だが、それ以外の郭は、かなり小さい。
養老川の対岸に、池和田城を望むが、防御性能は此処の方が優れているように思える。
ただ、山の規模が小さい為、兵を多く配備するには不十分であろう。
平安時代の領主の館から、戦国時代の山城に変貌を遂げたこの城からの眺望は、なかなか見事である。
現在墓地となっており、風光明媚な景色と静寂の中に、複雑な形状の堀切道に溶け込む様に建てられた墓石が佇んでいる。