くにうみ神話の島、沼島八幡神社~^_^
淡路島の南に位置する人口400人位の漁師町ながら 流石に神様が?最初にお創りになった沼島だけあり立派な八幡神社で調度 お賽銭箱の上の天井に干支の絵が、描かれて居ました。
社殿に賤ヶ岳合戦の絵馬があり、滋賀県は長浜で起きた賤ヶ岳合戦の絵馬が沼島の神社にあるの?という疑問に対しての解説板があった・沼島は海路の要所である・賤ヶ岳七本槍の一人である脇坂甚内安治がこの合戦後淡路守に任じられた大きくはこの二点。
この絵馬は賤ヶ岳合戦で脇坂甚内安治が活躍している様子を描いたものみたい。
急な石段、男坂女坂を登り参拝します。
拝殿内に凄く綺麗な絵馬が飾られていてお参りだけではなく、見て楽しめる神社です。
空気がいい空間でした。
見張らしも良いので、晴れた日は椅子に座ってのんびりするのも良いと想います。
町と港が見下ろせます。
主祭神:誉田別尊配祀神:足仲津彦尊/息長足姫命創建は永亨8年(1436)と伝えられています。
京都、石清水八幡宮の御分霊を阿万八幡宮を通じて勧請しました。
拝殿内では楽器を弾いている方がおられ、神秘的な空間を感じました。
拝:2020/11/09
昔から 古い神社のようで 森も2000年もずっと守っておられる様ですちょうど 伺った時が 宮司さん、息子さんお孫さん 森の手入れをされてる時でした。
お話しも聞かせていただき あの、山田孝之?俳優が来られたときにも 案内をされて 空撮 された島が 勾玉になってる写真も 拝見させていただきました。
御朱印も 奥さまに 丁寧に 近くの自凝神社の分 兼任で 2つ 書いて戴けました。
何かありそで何もない町の中心を少し過ぎた場所に、地元の人々が花を植え大切に祀っていらっしゃいます。
その前の昔観光案内所だった場所には33段の女坂、42段の男坂の石段を登る為なのでしょう杖が用意されています。
とは言え100段足らずの階段杖を借りる事はないと、登り眼下を望むと、流石はかつての水軍の要所島の美しい風景が一望できます。
境内には全国的にも珍しい逆羅針盤が天井に奉納されており境内後ろの鎮守の森に樹齢800年の八ツ又の木があるそうなので境内右手にあった階段から行ってみました。
そこを登ると御神木クラスの巨木がお出迎えしてくれましたが、お目当ての木はその奥の木と土で作った階段の上にあります。
急勾配の階段を登るとそこには、圧巻の御神木がありました。
下にあった杖はこの御神木に会う為のモノだったんですね。
何かありそで何もない町の中心を少し過ぎた場所に、地元の人々が花を植え大切に祀っていらっしゃいます。
その前の昔観光案内所だった場所には33段の女坂、42段の男坂の石段を登る為なのでしょう杖が用意されています。
とは言え100段足らずの階段杖を借りる事はないと、登り眼下を望むと、流石はかつての水軍の要所島の美しい風景が一望できます。
境内には全国的にも珍しい逆羅針盤が天井に奉納されており境内後ろの鎮守の森に樹齢800年の八ツ又の木があるそうなので境内右手にあった階段から行ってみました。
そこを登ると御神木クラスの巨木がお出迎えしてくれましたが、お目当ての木はその奥の木と土で作った階段の上にあります。
急勾配の階段を登るとそこには、圧巻の御神木がありました。
下にあった杖はこの御神木に会う為のモノだったんですね。
昔から 古い神社のようで 森も2000年もずっと守っておられる様ですちょうど 伺った時が 宮司さん、息子さんお孫さん 森の手入れをされてる時でした。
お話しも聞かせていただき あの、山田孝之?俳優が来られたときにも 案内をされて 空撮 された島が 勾玉になってる写真も 拝見させていただきました。
御朱印も 奥さまに 丁寧に 近くの自凝神社の分 兼任で 2つ 書いて戴けました。
沼島は親の田舎なのでの御先祖さまの御参りに行きました。
昔はこの神社なかったと思いますが、、、
海の見える所にある、漁師さん達の守り神様かな。
鮮やかな色での絵馬が、所狭しと掛けられていました。
猫島ってんで行ってみたら、全然人に慣れていない猫3匹見ただけ…フェリー乗ってる時、南海トラフ来たら終りやなって思てもうたわ。
沼島の街の真ん中にある神社です。
眺めがとても素敵です。
とても眺めの良い場所にあり、行って良かったです。
御朱印は鳥居横の宮司さんの家でもらえました。
おのころ神社の御朱印も、ここでもらえます。
脇坂甚平(わきさか・じんべい)のゆかりの八幡神社河内源氏の新田義重の子孫(脇屋家の分家)関ヶ原で徳川に敗走して海賊に成った🌟甚平は、長崎近くで徳川勢に海賊として討たれた甚平は、シゲゾウという15歳の少年を養子としたシゲゾウは、長崎で漁師となり静かにくらした脇坂安治甚内と甚平は、身内🌟🌟沼島暴動と水軍古代の昔から、沼島水軍は大活躍してきたわけですが、豊臣秀吉が海賊禁止令を発布し、これにより沼島水軍も加子とならざるを得なくなりました。
しかし一方では、その後も密貿易船や密漁船相手に海賊まがいの荒稼ぎも横行していました。
秀吉の朝鮮出兵では、加藤・脇坂水軍の加子として従軍。
脇坂水軍が敗れかけた時には、水軍太鼓で志気を奮い立てるなど、沼島の海部屋一族は大活躍をしました。
脇坂水軍は、朝鮮の大将がひるんだ隙に逃げて、九死に一生を得ました。
脇坂は、無事帰還できたのは、沼島八幡宮の神霊の加護によるものとして、八幡神社に参拝し、金品を奉納。
神宮寺には枯山水の庭を寄進し、家紋の使用を許しました。
🌟🌟桃山式枯山水の庭 脇坂家家紋 神宮寺の瓦その後、一国一城の令が出され、海賊衆はすべて、漁師、海商、百姓などの正業に就くよう命じられました。
しかも、ときすでに水軍として生活していく時代ではなくなっていました。
そのうちに、沼島水軍の大将である海部屋一族が2つの勢力に分裂し対立が起こりました。
一つは、海部屋の首領である海部屋半治の側、もう一方は大船頭である海部屋定吉(じょうきち)の側です。
半治側は、漁師と海商の道を選択しようと、定吉側は従来の水軍の道を選択しようとしました。
半治側には、水軍の首領、船主、網元など顔役連中が、定吉側には軍(いくさ)加子の系列に属する連中がつきました。
その結果、沼島全体の決裂という形に発展しました。
渡海船の争奪では、力にまさる定吉側が沼島にある宝珠丸、大宝丸、沼島丸の3艘を手中にし、半治側は福良に碇泊(ていはく)していた第一海部丸だけとなりました。
双方とも、それぞれの船をめくら船仕立てにし大砲も搭載していました。
🌟🌟亀甲船ある夜、半治は定吉が明朝出航するらしいことがわかりました。
その翌朝未明、定吉の3艘が由良の沖にさしかかったとき、島陰で待ち伏せしていた半治は、大砲の砲弾を宝珠丸に集中させました。
定吉は、3艘で海部丸を包囲し攻撃。
半治は、宝珠丸に体当たりしました。
その結果、両船とも積載していた火薬の爆発で木っ端みじんになり、半治も定吉も死んでしまいました。
生き残ったのは、双方合わせて17人だったそうです。
これが、沼島水軍の最後の姿となりました。
その後、沼島は蜂須賀氏の参勤交代の寄港地として、淡路一の加子数があり、その代償として広大な専用漁場を与えられ、漁業・回船業が発達しました。
そして、20年後。
新しい海部屋の首領、半治が漁業の船団を率いて沼島から出航しました。
この後の時代、海の豪商、海部屋一族の基礎を築いたこの半治は、定吉の子だと伝えられています。
沼島の総氏神さまを祀る。
宮司さんらも気さくで優しく、とても素敵な神社でした。
くにうみ神話の島、沼島八幡神社~^_^
名前 |
沼島八幡神社 |
---|---|
ジャンル |
|
電話番号 |
0799-57-0146 |
住所 |
|
関連サイト | |
評価 |
4.1 |
巨木の森が、沼島で一番好きなな所になりました。
空気が綺麗で時間がゆったりしています。