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名前 |
宮原出雲守''橘公忠"の墓 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
5.0 |
宮原公忠(みやはらきみただ)※出雲守とは律令制における官位の事。
従五位下にあたる。
宮原家は源平藤橘の橘家の流れを汲む一族で、子孫の方がいらっしゃるそうです。
『宮原家系譜』によれば、敏達天皇(西暦538年〜)の三世孫、諸兄王(もろえおう)が橘諸兄と称した橘氏の子孫であり、楠木氏(日本史上屈指の天才戦略家と謳われる楠木正成を輩出)なども同族である。
諸兄17世・橘公資(きみすけ)の代から肥後八代郡宮原に移り宮原氏と称した。
公高・公次・公忠と続き、公忠がはじめて人吉城主相良家に仕え、宮原四十余町(現氷川町宮原)の地頭となった。
八代市の宮原三神宮の西に宮原城(当時は松浜軒のようなものだと思われる)を築き、その城は後世の石垣、やぐらを持つ城ではなく、中世の平地にある土豪屋敷であり、堀や土堤に竹や木を植えて要害とした城館であった。
公高の弟公繁(もりしげ)が分家して宮原氏を称したが、公忠は公高の直系で、宮原氏中興の祖といわれる。
『求麻外史 くまがいし』永正11年(1514)には「相良長毎(さがらながつね)、宮原公忠に命じて霊符を刻らしむ」とある。
霊符の金版(木版に対していう銅版)を宮原公忠に命じて刻せしめたのは、金版が長年使用し磨減したので、新しく版を彫らしめたとされる。
相良長毎がそれほどに霊符を信仰し、相良氏の除災与楽・国家安全を希求していたこと、宮原公忠が霊符の知識について、相良家中第一人者であり、相良長毎の信任を得て新版彫刻の奉行を勤めたことによる。