名前 |
信順寺 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0823-54-0024 |
住所 |
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評価 |
4.3 |
江戸時代中期に沖乗り航路の港町として急速に発展した倉橋島の鹿老渡には、二、三軒の遊女屋がいてそれぞれ十数名の女性を抱えていた程でした。
そこにはこんな記録が残されています。
幕末の慶応元(一八六五)年三月、広島から二人の娘が鹿老渡に連れてこられます。
一人は、六年間給金九両二分で抱えられ、「花之丞」という源氏名をつけられました。
もう一人も六年間八両で抱えられ「きく」に改められ、下関今浦へ「棚替」させられます。
六月になって娘たちを連れてきた広島の元助という男が別件で逮捕されます。
元助は、広島城下へ奉公させると欺いて二人を内陸部から連れ出し、給金もすべて横領したことを白状しました。
藩の命令で二人を故郷に戻すことになったのですが。
「きく」は下関から連れ戻さなければなりません。
調べてみると鹿老渡で最初に「きく」を抱えたのは女性で、じつは彼女も母親の病気のために身売りし、やっと年季が明け、馴染みの援助でこの商売をはじめたばかりでだったようです。
(野村幸利文書、慶応元年「御用書付控」)。
遊女たちの境遇は、前借り給銀と引き替えに差し出す茶屋奉公人と同じで、年季の間はどんな事情があっても勤めを逃れることはできず、主人の考え一つでいつどこへ移されても、またどこでどのような病気で果てようとも、何ら異議を唱えられないものでした。
港町の繁栄は、江戸時代の厳しい暮らしの一断面を伝えています。