名前 |
佐波川通船一里塚跡 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
評価 |
4.0 |
ここにある大きな榎は「佐波川通船」の河川交通の目印として一里ごとに植えられたもので、現在、唯一残っている一里塚跡です。
船の通り道として、重源上人指揮のもと東大寺再建の用材を運搬するために造った「関水(せきみず)」を「舟通し」と呼び活用していました。
佐波川通船。
江戸時代、徳地の奥地の野谷や柚木あたりは良質な材木や和紙を産出していましたが、運搬に人手や時間がかかり採算にあいませんでした。
そこで、延宝8年(1680年)京都の町人 鶴屋山田善太郎が材木を川舟で運搬することを申請し許可され、明和4年(1767年)野谷村から西佐波令(現防府市)まで舟での運搬が始まりました。
しかしながら、その後は増水時以外はうまく舟が通らず中止されました。
(佐波川通船記録)安政3年(1856年)徳地代官山田頼毅が佐波川通船事業を計画し、安政6年(1859年)柚木(山口市徳地)から西ノ浦(現防府市西浦)までの通船に成功しました。
宮市船橋(現防府市)の船台石垣欄干に「安政六年十二月十五日通船成就」と刻まれています。