名前 |
和泉式部供養塚 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
評価 |
3.8 |
加茂李鷹が言うには、むかし源頼光上が千葉の国司であった時に、平井保昌は安房の国を領地としていた。
其のころに妻の式部が京都で亡くなった。
しるし(墓)は安房の地に立てたといわれるとある。
❶【参考 和泉式部塚 改訂房総叢書 1959年】和泉式部塚那古村那古寺に連なる山上に塚がある。
里人は「和泉式部」の塚と云い伝える。
杉本志道の説に「式部は初め和泉守道貞の妻たり(※1)。
後に丹後守保昌のつまとなり、(※2)保昌と共に安房に住きけるならん。
金葉・玉葉等を閲するに斯くぞ思はる。
荷田訓之が“めかりの日記”に此のことを載せたり。
都人_加茂李鷹が言へらく、昔時、源頼光上總介たりし時、平井保昌は安房の国を領したり。
必ず其のころ式部が都にて終わりたるを、しるしは安房にたてつるなるべし」と。
里人の口碑たえて、縁由なきにしもあらず。
其の塚上に立てたる五輪の石塔はきわめて古きものなれば、李鷹が説の如くにゃあらん。
(※1)長徳1(995)年ごろ和泉式部は橘道貞と結ばれた。
彼女の女房名は道貞が和泉守であったことによる。
(※2)長和2年(1013年)藤原保昌と再婚し夫の任国・丹後に下る。