新派劇の創始者を顕彰した石碑。
明治時代の政治家で新派の俳優オッペケペー節で一世風靡した。
台座の上には妻の川上貞奴が建てた川上音二郎の像があったが像は太平洋戦争時に金属供出させられた。
「オッペケペー節」で一世を風靡した興行師・芸術家、新派劇の創始者を顕彰した石碑。
谷中苔掃禄(著:谷根千工房)によれば元々この碑の上には川上音二郎の銅像が飾られていたのだが、第二次世界大戦の金属類回収令のアオリを喰らい銅像は撤去されてしまい、台座だけが残ってしまった。
それから長い年月が過ぎ今も谷中霊園に残っている。
川上 音二郎(かわかみ おとじろう)1864年2月8日(文久4年1月1日) - 1911年11月11日筑前黒田藩(福岡藩)出身の「オッペケペー節」で一世を風靡した興行師・芸術家、新派劇の創始者。
川上の始めた書生芝居、壮士芝居はやがて新派となり、旧劇(歌舞伎)をしのぐ人気を博した。
「新派劇の父」と称される。
幼名は川上 音吉(かわかみ おときち)。
上方噺家としての名跡は浮世亭 ◯◯(うきよてい まるまる)。
号は歎水。
1864年(文久4年)、筑前国博多中対馬小路町、現在の福岡市博多区対馬小路に生まれた。
福岡藩主黒田氏の郷士及び豪商・川上専蔵の子。
1911年(明治44年)、急性腹膜炎により11月4日から昏睡状態となり、11月11日に貞奴の願いにより運ばれた帝国座の舞台上で死去。
享年48歳。
「汽車が眺められるところに」という音二郎の遺言により、当時博多駅が近くにあった承天寺に葬られる。
名前 |
川上音二郎の碑 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
評価 |
3.7 |
「オッペケペー節」で一世を風靡した興行師・芸術家、新派劇の創始者である川上音二郎の石碑でお墓ではありません。
川上の始めた書生芝居、壮士芝居は新派となり、旧劇(歌舞伎)をしのぐ人気を博し「新派劇の父」と称されています。