大社に位置づけられていた。
月讀神社つきよみじんじゃ京都府京田辺市大住池平31祭神月読命(ツクヨミノミコト)住所の大住は鹿児島県の大隅半島の事で大王家(後の天皇家)に服属した隼人が移住されられた土地と思われます隼人の祖先は「記紀神話」の海幸彦で泳ぎが上手であるにも関わらず宮中の祭祀では溺れる振りを演じさせられます屈辱的であったと思われます南九州特に鹿児島県では月神信仰が濃厚に残存しており移住されられた隼人が月神を京都でも祀ったものと思われます2022年4月21日 参詣 曇り後雨。
月読さまが御祭神の神社は珍しいですね。
たまたま出逢うそのタイミングがいつも絶妙なお方さまです。
鳥居横の大きな石碑と境内の手作り風の噴水のある池が印象的な神社です。
摂社、末社もさりげない感じで良い雰囲気を出しています。
境内には昨年の台風21号の傷跡がいくつか見られました。
コンパクトですが、綺麗な神社でした。
月読尊(つきよみのみこと)、伊邪那岐尊(いざなぎのみこと)、伊邪那美尊(いざなみのみこと)を祀る延喜式内社で、大社に位置づけられていた。
中世にはたびたび兵乱、兵火を受けて、社殿の焼失と再興を繰り返した歴史があり、鎌倉時代初めに、源頼朝から神馬の献上があったとも伝えられ、明治維新の折には、鳥羽伏見の戦いを避けるため、石清水八幡宮が一時遷座され、ご神宝が薬師堂に安置された。
現在の本殿は、東に面する一間社春日造、銅板葺(もとは桧皮葺:ひわだぶき)の建物である。
明治26年(1893年)に名古屋の伊藤平左衛門により設計された。
本殿を囲む瑞垣の正面に、鳥居を配置する珍しい構造が見られる。
この春日造は奈良の春日大社本殿の形式で、この様式は、奈良を中心に京都府南部、大阪府、和歌山県北部などに広く分布する。
本神社が位置する大住地域の多くは、平安時代末期から室町時代末ごろまで奈良興福寺の荘園であった。
神宮寺として、宝生山福養寺が明治の初めごろまで存在し、奥ノ坊、新坊、中ノ坊、西ノ坊、北ノ坊、東ノ坊の六坊が備わっていたが、すべて廃寺となっている。
往事の社域は、大住小学校の北側あたりに北ノ坊の旧跡が調査で確認されており、かなり広大な社であったことがうかがえる。
毎年10月14日の宵宮には大住隼人舞(市指定文化財)が奉納される。
延喜式内社。
祭神は月読尊(つきよみのみこと)、伊邪那岐尊(いざなぎのみこと)、伊邪那美尊(いざなみのみこと)。
毎年10月14日の宵宮には大住隼人舞(市指定文化財)が奉納される。
隼人の出自について、記紀に記す「海幸彦山幸彦神話」では、天孫ニニギの御子・海幸彦を隼人の祖とする。
当社由来では隼人族の当地移住を7世紀頃とする。
因みに“大住”の地名も“大隅隼人”に由来するという。
大住には、当社や樺井月神社の他にも月読命に関わる神社が幾つか残っている。
甘南備山(カンナビ)には月読神が降臨したとの伝承があり、山頂に鎮座する神南備神社(式内小社)の本来の祭神は月読命という(今の祭神はアマテラス他4柱)。
また甘南備山北東山麓の薪神社には注連縄を張った神石があり、地元では月読神が降臨した磐座・影向石といわれている。
これらのことからみて、当地に居住した隼人の人々は甘南備山を月読神が降臨した聖地と見、その麓に幾つかの月読社を創建したと思われる。
ただ、これらに祀られている月読命は、記紀にいう三貴神の一人としてのそれではなく、潮の干満を左右する月神という土俗的・海人的な月神信仰に基づくものといえる。
(大和岩雄による)
名前 |
月読神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.1 |
小高い丘の上にあり、ここから観る月はどんなのかなあと想像が膨らみます。