歴史の推積を感じます。
守護大名山名宗全(持豊,1404~73)は,室町幕府将軍足利義政(1436~90)の後継をめぐり,義政と日野富子(1440~96)の子義尚(1465~89)を擁立して,将軍の弟義視(1439~91)を担ぎ,花の御所に陣を敷く管領細川勝元(1430~73)らと対立した。
東西両陣営は11年におよぶ応仁の乱を繰り広げた。
この石標は,西の陣山名邸跡を示すものである。
なお,この地を山名町というのは,この邸宅に因むものである。
山名宗全邸の大きさは、東:堀川通西:猪熊通北:上立売通南:上立売の一筋南 と思われます。
西陣の歴史:「西陣」の名は、応仁の乱(1467年-1477年)の際に西軍総大将である山名宗全らが堀川よりも西のこの土地に陣を構えたことに由来する。
応仁の乱後には各地に離散していた織物職人が京都に戻り、西陣と呼ばれるようになったこの地で織物作りを再開した。
西陣の範囲:享保2年(1717年)頃にまとめられた『京都御役所向大概覚書(きょうとごやくしょむけたいがいおぼえがき)』京都町奉行所の勤方の手引書(手配地域の状況とその権限)では、西陣の範囲は、堀川通・七本松通・鞍馬口通・一条通(または中立売通)に囲まれた範囲だったことがわかる。
西陣織の業者がいる地域は、おおむね南限は丸太町通、北限は上賀茂、東限は烏丸通、西限は西大路通とされる。
The guardian lord Yamana Sozen (Mochitoyo
知らなければ通りすぎてしまうくらいですが、どんな人が住んでいたかを知っていれば、歴史を十分感じる場所です。
街歩き中に通過しました。
応仁の乱でも有名な山名宗全の京屋敷跡。
住宅地の中にひっそりとあって、今に歴史を伝えている。
場所は分かりやすいかと思うが大きな石碑ではないので注意されたし。
山名宗全邸址の石碑は2ヶ所あります。
一つは堀川通に面したマンションの脇にあります。
もうひとつとは、堀川通から西に入った所で民家と民家の間に竹垣で囲われ、しっかりと手入れた中に立派な石碑があります。
応仁の乱で有名な山名宗全の邸宅跡です。
ここに陣を張ったので西陣となり、織物の町として地名に残っています。
邸宅跡の石碑も綺麗いに手入れされています。
対して細川勝元の東陣は、推定地として説明書があるのみです。
この差は、何なんでしょうか?考えると面白いですですね!!
碑と説明が有ります。
有名な応仁の乱の西陣の大将の邸宅跡だそうです。
京都の堀川通今出川上がる一筋目GS角西入る北側にあります。
親しい友人が教えてくれました。
応仁の乱は東の陣と西の陣に別れ😢⤵️⤵️た…そうです。
当時の西の大将が山名様だったそうです。
西陣の由来になった山名邸の跡がこちらのマンションです。
娘婿VS舅の争いに、幕府方の日野富子が干渉したが為に、「応仁の乱」の勃発に至りました。
更には、足利将軍家の御家騒動が絡み、諸国の大名達が争乱を起こすまでに至って、収拾が付かなくなってしまったのです。
そこに来て、朝廷の権力が弱まって来たのもあり、「応仁の乱」は、京都における内乱にして、最大の戦災です。
故に、皇族に対する疑念がいっそう強くなったのです。
「神罰も無力やな。
」と、あの時代の京都の町衆達でなくてもボヤきたくなりますね。
応仁の乱で西軍の総大将山名宗全の屋敷があった地です。
邸宅跡周辺は「西陣」として名を残しています。
小さな石碑ですが、京都にとってはとても大きな歴史。
なれや知る 都は野辺の 夕雲雀あがるを見ても 落つる涙は。
応仁の乱では重要な人物ですが、この場所は分かりにくく、とても質素です。
歴史を感じました。
応仁の乱を一つ一つ勉強するには必須だと思います。
歴史の推積を感じます。
日常のに生活に歴史が溶け込んでいる都の奥深さを感じます。
古が現代とシンクロしているような不思議。
都人の意識の高さに尊敬の念を禁じ得ません。
名前 |
山名宗全邸跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト |
https://ja.kyoto.travel/tourism/single01.php?category_id=8&tourism_id=934 |
評価 |
3.8 |
山名宗全の屋敷跡と細川勝元の屋敷跡が結構距離が近いので、応仁の乱の戦いの状況に疑問が出てきました。
両軍大軍なのですが、どのように対戦していたのでしょうか。
将軍の室町御所も結構近距離です。
京都御所も近いですね。
決着もつかず、長々と戦争状態が続いたようですね。